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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー馬鹿と阿呆

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始皇帝
 秦の始皇帝が中国全土を統一し、ようやく中国全土から戦火は潰【つい】えた一方、壮大な宮殿や驪山陵【りざんりょう】の建築、万里の長城などの大規模な工事、外征などに駆り出され、厳格な法律遵守の元に民の疲弊と怨嗟【えんさ】の声は増して行くばかりだった。

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 始皇帝が建設を進めた宮殿は阿房宮【あぼうきゅう】といい、秦の滅亡によって結局は未完成に終わった。東西1200×南北400m、高さ10mの版築の基壇が残っており、屋根瓦が出土している。この広大な敷地の中に最大東西800m×南北150mの宮殿があったとされ、その殿上には1万人が座れたという。写真は映画「始皇帝暗殺」のロケ地として建設された阿房宮で、現在はテーマパークになっているそうな。史実に基づいて再建されたわけではなく、偽物好きの中国人らしい。
 
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 始皇帝は皇帝の権威を誇示するとともに、各地域の視察を兼ねて、中国統一の翌年から5度にわたり天下巡遊を行い、そのために馳道【ちどう】と呼ばれる幹線道路を6,000キロにわたって整備させた。その幅は約70メートルで、そのうち7メートルは天子道と呼ばれ、皇帝しか通行出来なかった。もちろん、いざという場合には馳道は軍用道路にもなる。


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趙高

 始皇帝は5度目の巡遊中に体調を崩し、症状は次第に深刻になっていった。始皇帝は長子の扶蘇【ふそ】に「咸陽【かんよう】に戻り葬儀を主催せよ」との遺書を作成、お気に入りの宦官【かんがん】の趙高【ちょうこう】に託し、紀元前210年、沙丘(現在の河北省)で49歳で亡くなった。始皇帝の死による混乱を避けるため、一行は死を伏したまま咸陽へ向かった。死臭を誤魔化すため馬車には大量の塩漬けの魚(クサヤみたいなもん)が積み込まれたといわれる。

 扶蘇は温厚な人格と聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。葬儀の喪主になれと言われたということは、実質的に始皇帝から後継指名を受けたわけだ。しかし、扶蘇が皇帝になれば自分の地位が危うくなると考えた趙高が遺詔を握り潰し、将軍の蒙恬【もうてん】ともども死を賜る偽の詔を送った。蒙恬と言えば匈奴討伐に成功し、万里の長城の修復事業も担った人物。扶蘇は当時蒙恬とともに国境警備にあたっていた。

 蒙恬は偽詔であることを看破し、その旨を扶蘇に進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べてそれを受け入れず、偽命に従って扶蘇は自決、秦の命運はここにつきた。蒙恬はなおも抵抗したが、結局は毒を飲んで自決した。

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胡亥
 
 咸陽に戻った趙高は丞相【じょうしょう】の李斯【りし】と共謀し、自身が教育係を務めていた末子の胡亥【こがい】を二世皇帝に担ぎ出した。胡亥は公子高ら兄弟を含む皇族や重臣を粛清。始皇帝の死によって中断していた阿房宮の建築を再開したが、この大規模な工事には国中から人夫が集められ、その数は累計数百万人にまで及んだそうだ。さらに驪山陵や万里の長城の建築を推進し、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行なったことで人心の離反を招いた。

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 紀元前209年、河南の貧農であった陳勝と呉広による乱が勃発。陳勝は悲劇の皇太子である扶蘇を名乗り、民衆の支持を集めた。陳勝の言葉「王侯将相いずくんぞ種あらんや」は、人間の平等を主張したものとして有名だよね。彼らが反乱を起こすとたちまち中国全土で秦の圧政に対する不満が噴出して、反乱は全土に波及したが、反乱軍は内紛によって瓦解し、反乱は半年余りで鎮圧された。

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李斯

 二世皇帝・胡亥はさらなる土木事業や奢侈な宮廷生活を追求したことから、人心は一段と乖離するが、二世皇帝に諫言した丞相の李斯は趙高の讒言により処刑された。趙高は李斯の一族をまとめて粛清し、自身は丞相の位にまで登り詰めたが、その野心はますます増長し、政権転覆を謀ろうと計画するようになる。しかし、この企みが成功するかどうか確信が持てなかった趙高は、身辺にどれだけの味方がいるのかを調べるために一計を案じることにした。 

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 趙高は鹿を二世皇帝・胡亥に献上し、「陛下、馬でございます」と言った。

 皇帝は笑って、「丞相は間違えたな。鹿のことを馬と言いおったわ!(鹿を指して馬と為す)」と左右の侍臣たちに問いかけた。

 左右の者たち、ある者は黙ったまま何も言わず、ある者は「いえいえ、陛下、これは馬でございます」と言って趙高におもねり、ある者は「陛下のおっしゃるとおり鹿でございます」と言った。

趙高はこれを聞いて、「鹿だ」といった者を密かに合法的に罪に陥れた。こうして、秦国内では誰も趙高には逆らわないようになったそうだ。

 これが、「馬鹿」の語源とされている(馬鹿の語源には諸説ある)。

 紀元前207年になると、秦軍は各地で反乱軍に敗退、中でも劉邦の軍は咸陽の近郊まで進軍してきた。ようやく状況の悪化を知った二世皇帝は趙高の責任を追及し、粛清を恐れた趙高は一族を率いてクーデターを敢行。その結果、二世皇帝は捕らえられ、自殺させられた。趙高は自分が死に追いやった扶蘇の子供である子嬰【しえい】を立てて三世皇帝とするが、結局はこの子嬰に殺されてしまう。本当、馬鹿だね~。

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 その後、阿房宮は攻め込んできた項羽【こうう】軍によって焼き払われ、その火は3ヶ月間鎮火することが無かったと、『史記』項羽本紀は伝えている。このような人々の怨嗟の元となり、国が疲弊していく原因ともなった阿房宮が転じて、愚かなさま、行動を「阿呆」と言うようになったんだってさ。

 ただし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が公表されている。

※人物の肖像は中国テレビドラマ『項羽と劉邦 King's War』から拝借しました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/10/17 09:23 】

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