なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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項羽
秦末の混乱の中で、二人の人物が天下をめぐって激しく戦うことになった。項羽【こうう】は楚の将軍の家系の出身で、紀元前206年には秦を滅ぼし、一時「西楚の覇王」と称した。戦いにはめっぽう強かったが、性格的は部下の意見を聞かず、何でも自分が先頭になってやらねば気が済まない、しかも喜怒哀楽が激しい人物であった。
これに対し、劉邦【りゅうほう】は沛県の農民の出身で、おおらかで大酒飲みの遊び人であったが、他人の意見によく耳を傾けることから多くの人に好かれ、韓信などの優秀な人材が彼のもとに集まった。この違いが二人の命運を決める。
覇王項羽は劉邦と5年にわたって天下の覇を争ったが、「力」と「気」だけにたよって范増【はんぞう】のような謀将にまで見限られ、しだいに劉邦に圧されて、ついに天下を二分してこれと講和した。だが、張良・陳平の計略によって、故郷である楚に帰る途中、垓下【がいか】で韓信の指揮する漢軍の重囲に陥ってしまった。紀元前202年のことである。韓信を先鋒とする漢軍の兵は30万、対する楚軍の兵は10万ばかりであった。
項羽は戦いに敗れて、兵少なく、食尽きていた。やがて夜になった。するとどこからともなく歌声が起こってきた。あるいは遠く、あるいは近く、東からも、西からも、北からも、南からも、歌声は起こってくるではないか。耳を傾けると、それは楚の歌声なのだ。張良の計略だった。果たして楚の出征兵ー農民たちは、懐かしい故郷の歌声を聞いて、望郷の思いにかられ、戦意を挫かれて脱落していった。漢軍に下った楚の九江の兵たちが歌ったのだった。
項羽は四面楚歌するのを聞いて驚いて言った。「漢はもう楚を取ってしまったのか。なんというおびただしい楚人だ!」
四面楚歌ー孤立無援の重囲に陥ったのだ。もはやこれまでと思った項羽は、起きて帳【とばり】の中に入り、訣別の宴を張った。
項羽の軍中に虞美人【ぐびじん】という寵姫がいて、影の形に従うごとく、いつも項羽の側を離れなかった。また、騅【すい】という駿馬【しゅんめ】がいて、項羽はいつもこれに乗っていた。項羽は虞美人が哀れであった。彼は悲歌慷慨【ひかこうがい】し、自ら詩を作って歌った。
力、山を抜き、気、世を蓋【おお】う。
時、利あらず、騅、逝【ゆ】かず。
騅、逝かず、奈何【いかに】すべき。
虞や、虞や、若【なんじ】を奈何せん。
反復して歌うこと数回。虞美人も別れの悲しみをこめて絶え入らんばかりに和して歌った。
漢兵已【すで】に地を略す、
四方楚歌の声、
大王意気尽きぬ、
賤妾【せんしょう】何ぞ生に聊【やすん】ぜん。
鬼おもひしぐ項羽の顔に幾すじかの涙が流れた。左右の者もみな泣き、誰一人として顔を上げうる者はいなかった。悲愴の気、堂に満ち、虞美人はひしとばかり項羽に取りすがる。だがもはや如何ともしがたい。
「なんでおめおめ生きておりましょう」そう歌った虞美人は果たして項羽に宝剣を乞うて柔肌に突き立てて自決してしまった。
その夜、項羽は残る800余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、5,000騎の兵を率いてこれを追った。800の兵は次第に数を減らし、東城に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。
項羽たちはさらに東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。しかし、挙兵した自分がおめおめ江東へ戻ろうとした心を恥じた項羽は、漢軍に突入。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽31歳であった。
虞美人の血が滴った土の上に、やがて廻ってきた春、綺麗な花が咲いた。その花は虞美人の在りし日の姿のように優しく、虞美人の貞潔な血のように紅く、英雄項羽の運命を傷【かなし】んだ虞美人のように悲しげに風に揺れていた。人々は、この花を虞美人の生まれ代わりと考え、虞美人草(ひなげし)と呼んだ。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『項羽と劉邦 King's War』から拝借しました。
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