なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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呂后【りょこう】は本名を呂雉【りょち】といい地元の名士であった呂公を父として生まれた。呂公は近隣の沛という地方の県令(県知事)と親しい間柄で、その県令に招かれた呂一家のために県内の有力者を集めての歓迎の宴が開かれることとなった。その宴は祝儀の多寡により座敷に上がるものとそうでないものが分けられ、その額が千銭以上のものだけを正規の招待客として扱うことになっていた。
そこに劉邦という男が現れると一銭も持参していないというのに、奉加帳に一万銭と書き込み座敷へと上がり込んだ。あまりの振る舞いに当然世話役が押し返そうとしたが、主賓である呂公はそれを制し、自分の側に座らせた。人相を見ることに長けていた呂公は、劉邦に並外れた相が出ていると読み、呂雉を劉邦に嫁がせることにした。
当時の劉邦は亭長という宿場の管理と治安維持を仕事とするような、しがない役人で、酒と女が大好きで、傍若無人に振る舞うのが常な人間だった。しかし、なんとなくおおらかな雰囲気があり、妙に人を惹きつけるところがあったという。劉邦は居酒屋でいつも文無しで飲み続けてその場で眠ってしまうのだが、その劉邦が店にいる間はなぜか店が大繁盛するので、そのツケがいつもチャラになったそうだ。そんな男に大事な娘はやれないと呂公の奥さんは猛反対したが、呂公は一切取り合わず、二人を結婚させた。
しかし、結婚してからも劉邦は相変わらず酒や女に興じる生活を送っていた。亭長の給料は安く、家計を支えるために呂雉は慣れない野良仕事や土木作業で、劉邦との間にもうけた魯元【ろげん】という娘と、盈【えい】という息子を苦労しながら育てた。いわゆる糟糠の妻というやつだ。
劉邦が項羽との楚漢戦争を戦い抜いている時期も、呂雉は家を守り内助の功を尽くした。途中、舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ、2年ほど捕虜として苦しんだ時期もあった。しかし、紀元前202年、ついに劉邦が皇帝となったことで、呂雉は皇后、息子の盈は太子となり、今までの苦労もすべて報われるはずだった。
戚夫人
ところが、劉邦は皇帝となっても女癖が一向に直らず、特に戚【せき】夫人という若い側室を寵愛した。戚夫人は上体を後ろに大きく反らす楚舞(イナバウアーみたいなもんかな)を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。劉邦が親征する時にも同伴させるなど、格別の寵愛を与えていた。それに対して呂后は女性としての魅力が薄れてくる年齢となり、いつも留守番をさせられていた。そうすると劉邦と会うこと自体も少なくなり、ますます疎遠となっていった。
呂后はこうした劉邦の女遊びの多くには目をつむり我慢するしかなかったが、この戚夫人に対してだけは訳が違った。戚夫人はその寵愛をいいことに、自身が産んだ如意という子を太子にしてほしいと懇願したからだ。もともと劉邦は柔和で弱々しさのある盈を自分の跡継ぎとして考えた時に、あまりいい印象をもっていなかった。対して戚夫人との子である如意はなかなか利発で、大物の片鱗を伺わせるところがあり、劉邦としては建国間もない国を如意に任せたかったようだ。しかし、呂后としては我が子の盈が廃立させられるなど許せるわけがない。この危機に際して呂后は劉邦を支え続けてきた軍師の張良を頼り、その張良の知恵によって何とか息子の地位を守りぬいた。
劉盈(恵帝)
紀元前195年に劉邦が亡くなり、盈が二代皇帝恵帝として即位した。我が子が帝位につき、皇太后となった呂后は権力を振るい始めるようになる。
手始めに行ったことは、憎き戚夫人への復讐だった。ここから先は残酷なので、嫌な人はスルーしてね。劉邦が死んだ翌月、呂后は戚夫人に罪を着せ投獄した。坊主頭にし、ボロ着を与え、手足に枷【かせ】をはめてひたすら奴隷のように扱い、四六時中石臼をひかせた。
そして戚夫人の息子である如意を、殺すために都へと呼び寄せた。母の企みを察知していた恵帝は、実の兄弟のようにかわいがっていた如意を守るため常に一緒に行動するようにした。しかし、ある冷え込みの厳しい朝、恵帝はよく眠っている如意を起こすのが可愛そうになり、一人で狩りにへと出かけてしまった。恵帝が見せた一瞬のスキを見逃さなかった呂后は、その狩りの最中に如意を毒殺してしまう。如意は13歳だった。
呂后は如意が悶え苦しんで死んだ様を、獄中の戚夫人に事細かに話して聞かせた。そのことに嘆き悲しむ戚夫人を見ると、続いて呂后は宦官【かんがん】に命じて彼女を裸にさせ、両足を広げさせた。そしてむき出しになった陰部を指さし「これが先帝を迷わせた穴か」と言うなり強く踏みつけた。続いて数日後、凶悪な殺人犯を何人も連れ出してくると、代わる代わる強姦させた。その後、ぐったりとした戚夫人に劇薬を飲ませ声を出なくさせると、次いで手足を切り落とし、両目をえぐり、耳には硫黄を流し込んで、厠【かわや】へと放り込んだ。
古代中国では豚便所といって、豚小屋と便所は一体化されていた。豚小屋の上に落下式便所を設け、人が用を足すと豚が人の大便を餌として食べるというわけだ。戚夫人が便所に放り込まれたということは、豚小屋に放り込まれたということで、戚夫人は糞まみれになった。呂后は恵帝を呼び寄せると、「人豚がいますよ」と厠へ向かうよう指示した。豚と一緒になって何かがもぞもぞと動いている。恵帝はその肉の塊が最初なんなのか分からなかったが、それが戚夫人の変わり果てた姿だと分かると、あまりの衝撃で頭が悩乱し、寝込んでしまった。恵帝はこれ以降政務に携わろうとせず、酒に身を任せる日々を送るようになってしまう。その酒と心労が身体を蝕んだのか在位わずか7年、23歳の若さでこの世を去った。
代わって皇帝となったのが、恵帝の子とされた少帝恭【きょう】である。ところが、少帝恭は呂后がかつて少帝恭の実母を殺害していたことを知る。少帝恭が呂后を憎むようになると、呂后は少帝恭を獄に閉じ込め、暗殺してしまう。これで、呂后の暴走はいよいよ止まらなくなった。幼少の皇帝をたてて傀儡【かいらい】とし、呂后一族で政権を独占し、劉邦の一族を次々と殺害した。
呂后の横暴は、その死まで続いた。紀元前180年、呂后が死去すると、劉邦の遊侠仲間だった周勃【しゅうぼつ】が老体に鞭打って立ち上がる。周勃は近衛軍を率いて呂氏一族を掃討、呂氏の時代を終わらせた。劉邦の子として生き残っていた文帝が皇帝となり、以後、ようやく安定した時代が訪れたのである。
※人物の肖像は中国テレビドラマ『項羽と劉邦 King's War』と『美人心計』から拝借しました。
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