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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー匈奴に嫁いだ悲劇の美女・王昭君

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王昭君

 王昭君って知ってますか?男じゃないよ、女だよ。それも春秋末の西施【せいし】・唐の楊貴妃・三国時代の貂蝉【ちょうせん】らと共に中国四大美女の一人と謳われた絶世の美女だ。(貂蝉は架空の人物)

  王昭君の名は嬙【しょう】、昭君は字【あざな】。知ってるとは思うけど、中国人は2つ名前を持っている。本名は諱【いみな】といって、親や主君が諱で呼びかけることは許されるけど、それ以外の人が諱で呼ぶことは失礼とされる。それで、普段使うのが字だ。例えば、有名な諸葛孔明の孔明は字で、諱は亮だよ。

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元帝

 王昭君は今の湖北省興山県の庶民の家に生まれた。よほど美しい少女だったんだろうね、14歳の時に漢の第10代皇帝・元帝【げんてい】の宮女として後宮【こうきゅう】に入った。後宮は日本で言えば江戸時代の大奥で、何千人という女性が仕えており、皇帝の目に留まり、寵愛を受けることは大変なことだった。その中には、一度も皇帝に会うこともなく、寂しくその一生を終えた女が沢山いた。

肖像画 

 元帝は画家の描いた肖像画によって後宮の女性を召し出していた。後宮の女性たちは何としてでも美しく描いてもらい皇帝の目にとまりたいと願い、画家に賄賂をたっぷりと渡した。しかし、王昭君だけは賄賂を贈らなかった。貧乏でお金が無かったのか、自分の美貌に自身があったのか、不正を嫌う真っ直ぐな性格だったのか、さほど寵愛を受けたいとは思っていなかったのか、理由は分からないが、ともかく賄賂を贈らなかったために、醜く描かれてしまった。当然、皇帝からの指名がかかることは無かった。

 一方、武帝の攻撃を受けて弱体化した匈奴は紀元前60年に東西に分裂し、そのうちモンゴル高原に残ったのが東匈奴と言った。東匈奴の呼韓邪【こかんや】単于【ぜんう】は、西匈奴との戦いを有利にしようとして、紀元前53年に漢に投降してその保護を受け、紀元前51年には呼韓邪が自ら漢の宣帝を甘泉宮に訪れて拝謁し、藩臣と称した。

 紀元前36年、西匈奴が漢に攻め滅ぼされた。喜ぶとともに漢の力を恐れた呼韓邪は、漢と姻戚関係を結ぼうと考え、紀元前33年に漢の王族の娘の降嫁を願い出た。元帝は王族の娘をとてもそんな野蛮な国に嫁がせられないと考え、代わりに後宮の宮女を送り出すことにした。そこで、例の肖像画をもとに醜い10人を選んだ、とされている。でも、そんなブスばっかり送ったら呼韓邪は怒るだろうから、まあ自分の好みでない女性を選んだんだろうね。で、その中に王昭君もいたわけだ。

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 匈奴に旅立つ当日、元帝はこの哀れな女性たちに別れのねぎらいの言葉の一つでもかけてやるつもりで謁見した。元帝は王昭君を見て驚いた。肖像画とは似ても似つかぬ絶世の美女だったからだ。「これほどの美女は見た事がない。後宮中を探してもこんな美女は見つからない!」しかし、後悔しても後の祭り。この時点で変更すれば匈奴との外交上大問題となる。やむなく、涙を呑んで、王昭君を漠北の地に送り出した。王昭君は19歳だった。

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 王昭君は、馬に揺られて匈奴の地まで2千キロもの道のりを旅したという。その長旅は、山超え、砂漠を超え、草原を超え、延々2か月以上もかかる辛いものであった。その際、彼女は怨思【えんし】の歌という歌をつくり、元帝に贈ったということである。その歌には、一度も寵愛されることがなく、異境の地に赴かねばならなかった怨みの思いが綴られている。顔立ちも異なり、言葉も通じず、衣食住などの文化にもほとんど共通点のない所に、親兄弟知人友人ひとりなく連れていかれるというのはどれほど心細かったことであろうか。

 王昭君は呼韓邪単于の閼氏【あっし】(匈奴の言葉で君主の妻)として一男を儲けた。その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮【ぶくしゅるいにゃくたい】単于の妻になって二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことも王昭君の悲劇性を高めた。

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 彼女は、毎日、漢のある方角を眺めては帰郷の念にかられて涙したという。故郷の方向へ飛んでいく雁を見ながら望郷の思いをこめて琵琶をかき鳴らした所、彼女の姿と悲しい調べに魅入られて雁が次々に落ちてきたと言われる。ここから、王昭君はその美しさを讃えて、落雁【らくがん】美人と呼ばれる。

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 王昭君の悲劇性を決定的にしたのが馬致遠【ばちおん】作の元曲『漢宮秋』で、今でも京劇で演じられている。賄賂を贈らなかったため醜く描かれたのは同じで、王昭君は宮廷に入った後も元帝の目にとまることは無かった。ところが、ある日元帝は城内を歩いている時に彼女が琵琶を弾いているところに出くわし、彼女を寵愛するようになる。画家・毛延寿【もうえんじゅ】は自分の悪事がバレるのを恐れ匈奴に逃亡。そこで単于に王昭君の美しい肖像画を見せ、この美しい妃を手に入れるよう唆【そそのか】す。この策略にのった単于が漢を攻め、元帝に王昭君を差し出すよう要求。元帝は泣く泣く愛妃・王昭君を彼に渡すのだが、彼女は匈奴に行く途中、黒河(エチナ河)に身を投げてしまう。ってな訳で、王昭君は死んでしまうんだ。(ちなみに、史実では多額の賄賂を取り立てていた画家は、不正が発覚して処刑され、毛延寿もこの事件で処刑されたらしい。)

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でも、王昭君は本当に悲劇の主人公なのだろうか。王昭君の墓は複数あるのだが、一番有名なのが内モンゴルのフフホト。そこには写真にあるように、王昭君と呼韓邪単于がともに馬にまたがり、寄り添うように並んでいる像が建てられている。実在の王昭君は悲劇の女性などではなく、自分で道を切り開いていくことができる強く美しく、そして幸運で案外幸せな生涯を送った女性だったのかもしれない。

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 ちなみに、これも王昭君と名づけられた品種。バラのように見えるかもしれないけど、椿だよ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/10/27 11:18 】

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