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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー赤い眉毛の反乱軍

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 この顔覚えてる?前回の王昭君の話に登場した漢の第10代皇帝の元帝だね。彼がまだ皇太子だった時のことだが、愛妾に先立たれた彼はそのショックから女を近づけなくなっていた。当時、彼には子供がおらず、父親の宣帝は彼を廃嫡することを考えていた。慌てた彼の育ての母と彼の側近たちは、彼に子供を儲けることを求めた。

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 やむなく彼が寝所に呼んだのが王政君だった。たった一度の関係で王政君は劉驁【りゅうごう】(後の成帝)を妊娠、出産した。すごい命中率だね。


 紀元前33年に元帝が没し、成帝が即位する。成帝はダンサーあがりの美女を皇后に据え、さらにその妹に心を移すなど、淫蕩にして無能な放蕩天子だった。皇帝が遊び呆けている間に、王政君は皇太后として世上の尊敬を一身に集める立場となる。この頃から、彼女の兄弟や甥達が政治の中枢に関与することとなり、王氏一族は、わが世の春を迎える。しかし、成帝が急死し、哀帝が即位すると、哀帝の外戚が政治に関与するようになり、王氏一族は権力を削られてしまう。ところが、哀帝がわずか25歳で崩御してしまう。

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 わずか9歳の平帝が即位するが、この混乱に乗じて再び実権を握った王政君が大司馬(現代で言えば国防長官)に任命したのが王莽【おうもう】だった。王莽は王政君の甥っ子。その上、平帝が11歳の時に王莽は14歳の自分の娘を皇后にしてるんで、完璧な外戚だ。平帝は14歳で病死(王莽が毒殺したという話もある)。数え年で2歳の孺子嬰【じゅしえい】が後継に立てられたが、皇帝ではなく皇太子とし、王莽が仮皇帝(摂皇帝)として朝政の万機を執り行った。

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 3年後の西暦8年、オカルト的な仕掛けを用いて即位を正当化し、王莽は天命に基づいて禅譲【ぜんじょう】を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は中国史上で初めての禅譲なんだけど、実際には帝位を簒奪したわけだ。それも、王政君が保管していた玉璽【ぎょくじ】(秦から漢に受けつがれた皇帝の印鑑)を強引に奪い取り、実現させたんだぞ。儀式の最中、王莽は幼い儒子嬰の手をとり、すすり泣きながら「天帝の命令にはさからえない」と嘆いて見せたんだってさ。役者だね。

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 王莽は周代の治世を理想とし、『周礼』など儒家の書物を元に国策を行った。写真は世界史の授業で習った布銭だよね。だけど、これは戦国時代のものじゃなくて、王莽が発行したものなんだ。こうした過去に逆戻りするような新貨幣を28種類も鋳造して経済界は大混乱。また、周辺民族に対しては極端な華夷思想から、匈奴や高句麗に与えていた王号を取り上げて、「降奴服于」や「下句麗侯」という称号を押しつけたため、周辺民族の反乱が勃発。これを鎮圧しようとしたが失敗。専売制の強化も失敗し、新の財政は困窮した。


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 琅邪【ろうや】郡海曲県というところに、呂母【りょぼ】という老婆がいた。しかしある時、県の役人が彼女の息子を微罪で捕らえ、処刑してしまった。悔しくてならぬ呂母は、酒造りで蓄えた財産を投じて近所の若者を集め、武器を買い揃えてゆく。西暦17年、呂母たちは復讐を決行、役人を血祭りにあげて息子の仇討ちを果たした。宿願を果たした呂母はほどなく亡くなったが、集まった若者たちはこのまま解散というわけにはいかなくなっていた。

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 呂母のもとに集まった若者たちは、西暦18年に王莽に対する反乱の狼煙を上げる。時流とは恐ろしいもので、私的な報復を果たすためだったはずのこの集団に、たちまち十万という人数が合流した。彼らは敵味方を区別するため、眉を赤く染めるようになる。このため、この集団は赤眉【せきび】軍と呼ばれた。

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 なぜ赤なのか?他の色では駄目なのか?ーこれが赤でないと意味がないんですな。なぜかと言うと……。

 鄒衍【すうえん】が大成した陰陽五行説では、万物生成やその変化を陰陽という二気と木・火・土・金・水の五要素(五行)の消長・関連から説明するんだけど、これを歴史の場に適用し,王朝の交代を理論づけた。いわゆる五徳(五行のパワー)終始(循環の意)説で、一代の帝王は五行のどれかひとつの徳をそなえ,王朝は五徳の順序にしたがって交替すると説いた。これには五行相剋(相勝)説と五行相生説がある。

 五行相剋説では、水は火を消し、土は水をふさぐというふうに、火→水→土→木→金の順序のもとに,それぞれ前者に打ち勝ちつつ現れるとする。これに対して、五行相生説では、木は燃えて火を生み、物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還るというふうに、木→火→土→金→水の順序のもとに次々と生成するとする。漢の武帝の頃は相剋説で説明され、周(火徳)→秦(水徳)→漢(土徳)の順だったが、王莽の時代には相生説で説明され、周(木徳)→秦(正統でないとし除く)→漢(火徳)→新(土徳)の順となった。火の色は赤だよね。赤眉の乱が赤をシンボルカラーとしたのは、漢を復興するという意志を示したものなんだ。

 赤眉の乱や緑林の乱などの農民反乱や豪族の反抗によって、新は西暦23年に滅びてしまう。新はたった15年しか続かなかったわけだ。 

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 後漢末に張角【ちょうかく】の創始した太平道が黄巾の乱を起こしたよね。黄色の頭巾を巻いて反乱軍の印としたのでこの名があるけど、黄色は土徳のシンボルカラーだから、後漢を滅ぼすぞという意志を示したというわけさ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/10/29 09:17 】

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