なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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中国最初の正史である『史記』を著し、「中国の歴史の父」と呼ばれる司馬遷。彼にはチンチンが無かったって知ってる?
司馬遷は現在の陝西省出身。周代からの史官の家柄で、父の司馬談は太史令(天文・暦学や修史を扱う役所の長官)であった。そのため司馬遷も10歳の頃から古書籍を読み、また暮らしのため畑仕事や家畜の世話などもし、壮健な身体を育んでいった。
司馬遷は20歳の頃に父の命令で中国各地を訪ねる大旅行を行っている。旅程は分かっているが、旅の目的や同行者の存在が不明という不可思議な旅だが、恐らく修史のための記録収集が目的だと思われる。この旅の記録を書いていれば、玄奘の『大唐西域記』に匹敵する大旅行記になっただろうが、司馬遷は歴史記録にしか興味が無いのか、残念ながら旅行記は残していない。
この旅では、司馬遷は好んでその土地の古跡を訪ね、古老から昔話を聞き取り、その土地独自の伝説を収集して歩いた。故事伝説だけではなく、地方住民のリアルな風俗や人柄を調べ、地理をその足で確認しながら旅を続けたそうだ。この経験が『史記』を著す下地となったことは、言うまでもない。
司馬遷は23歳頃、郎中(皇帝の身辺警護の侍従職)に任官して武帝に仕え、巡幸に随行した。病を得た父が臨終の床で、「お前は第二の孔子となり、先祖の志を継ぐのだ」と遺言し、修史事業の継続を命じた。3年間は父の喪に服したあと、その遺志に従って郎中から転じて太史令となり、さらにその4年後にいよいよ『史記』
の執筆に取りかかった。
執筆を始めて5年後に事件が起きた。紀元前99年、武帝は李広利将軍を総大将とする3万の騎兵隊を出陣させた。帝国の総力をあげての匈奴潰滅戦争であった。その折、輜重【しちょう】隊長(武器・弾薬、食料の輸送にあたる隊の長)の役には満足できなかった李陵【りりょう】は、自ら武帝に申し出て、配下の歩兵5000人を率いて別働隊を組織し、西北ゴビの城塞・居延【きょえん】から北に向かった。
しかし、不幸なことに、3万を超える敵の主力軍と遭遇し、包囲されてしまう。李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず8日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵1万を討ち取った。だが、さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、ついには投降の道を選んだ。
武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。皆が李陵を批判する中、司馬遷はただ一人彼を弁護したのである。
司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると述べた。
しかし、これは逆効果だった。意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、李陵を救援しなかった李広利を非難しているものと受け止められた。武帝の命によって、即座に彼は獄吏に連行された。高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった。
だが、翌年になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報がもたらされ、事態は一変した。反逆と見なされた李陵は、反逆罪に対して設けられた族刑(父母妻子兄弟が連坐して斬首となる)が適用され、家族は誅殺されてしまう。李陵はそれを機に、実際に匈奴の側に寝返ってしまい、祖国には二度と戻らなかった。
蘇武牧羊図
その頃、やはり匈奴の捕虜となっていた蘇武【そぶ】という男がいた。匈奴は彼を脅して帰順させようとしたが屈しなかったため、彼は穴蔵に飲食物もなく捨て置かれた。それでも、雪を囓【かじ】り、節の飾りについている毛を食べた生きながらえた。やがて、蘇武は北海(現在のバイカル湖)のほとりに移されたが、匈奴から「オスの羊が乳を出したら帰してやる」と言われてしまう。彼はそこで、野鼠の穴を掘り、草の実を食うなどの辛酸をなめたが、単于【ぜんう】(匈奴の王)の弟に気に入られて援助を受けて生き長らえ、匈奴に屈することがなかった。
蘇武はかつて李陵と共に侍中を務めた仲であり、20年来の友であった。今では匈奴に降って厚遇されていた李陵が降伏するよう説得したが、それでも蘇武は屈しなかった。抑留20年、武帝の死後に彼は許されて漢に帰還することになる。ゴビを舞台とした二人の対称的な生き様、友情と別離を綴ったものが、「漠北悲歌」すなわち中島敦の『李陵』である。是非、一度読んでもらいたい。
話が横道に逸れてしまったが、李陵一族が皆殺しにされた時、累は司馬遷にも及び彼に死刑が宣告された。死刑を免れる方法として金銭か宮刑があるが、金銭の無い司馬遷は宮刑を選択するしかなかった。詳しいことは宦官【かんがん】のところで話すが、宮刑は男性性器を切除してしまう刑罰、つまりチンチンや睾丸を切り取ってしまうわけだ。当時は儒教全盛期だから、子孫を残せないことは先祖を蔑【ないがし】ろにすることになり、大変な屈辱だった。しかし、ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼は父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。牢獄に繋がれてから4年後、大赦によって司馬遷は釈放され、中書令の任が下った。中書令は皇帝の秘書長官の役で、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった。
しかし、この屈辱に耐え、6年後についに『史記』130巻を完成させた。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻からなる紀伝体の歴史書で、文字数にすれば52万6,500字。
『史記』には武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、司馬遷はすでに楊家に嫁いでいた娘にこれを託した。『史記』が世に広められたのは、武帝没後のこと。宣帝の時代になって、孫の楊惲より世に広められた。
えっ、チンチン切られた司馬遷に子供がいたんか?って。切られる前につくった子が何人かいたんですよ。
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