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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー三顧の礼

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董卓
 
 後漢末の中平6(189)年、将軍・董卓【とうたく】は、霊帝のあとを継いで即位したばかりの少帝弁を廃して、異母弟の陳留王協(献帝)を立て、自ら宰相となって専横暴虐を極めた。そのため天下は乱れて、しばらく群雄割拠の時代が続いたが、次第に天下の趨勢【すうせい】は曹操【そうそう】(魏)、孫権【そんけん】(呉)、劉備【りゅうび】(蜀)に三分され、いわゆる三国鼎立【ていりつ】の時代に移っていった。

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劉備

 この中で最も立ち遅れていたのは劉備であった。すでに曹操が江北を平らげ、孫権が江東に勢いを得ている時、劉備にはまだ拠るべき地盤がなかった。彼のもとには関羽【かんう】、張飛【ちょうひ】、趙雲【ちょううん】らの勇将はいたが、ともに事をはかるべき策略の士がいなかった。それを痛感した劉備が、彼こそと見込んだ人物が諸葛亮【しょかつりょう】であった。

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諸葛亮

 諸葛亮は字【あざな】は孔明【こうめい】、伏龍や臥龍【がりゅう】とも呼ばれる。三国志で一番有名な人物で、世界史好きでなくても、その名を知らない人はいないだろう。

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 孔明は早くに父を失い、戦乱の世を避けて、襄陽【じょうよう】の西、隆中山の臥龍岡【がりゅうこう】という丘に草廬【そうろ】を結び、晴耕雨読の毎日を送っていた。一方、劉備は袁紹【えんしょう】の陣営を離れて劉表【りゅうひょう】を頼り、荊州【けいしゅう】北部の新野【しんや】に居城を貰っていた。孔明の友人の徐庶【じょしょ】が劉備の下に出入りして、孔明のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は孔明のもとに足を運ぶことにした。

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 この時、劉備は47歳。その上、漢の皇帝の末裔で、左将軍の地位にある。そんな人物が27歳の無位無官の若造に会いに行くなどということは常識では考えられない。おまけに、地図で見ると近そうだが、新野から襄陽の隆中山までの100キロほどもある。その道をはるばる訪ね、高鳴る動悸を抑えながら門を叩いた劉備は、若い女性に出迎えられた。「諸葛亮先生にお会いしたいのですが」、劉備は笑顔をつくる。「主人なら、今日はお留守ですが」。落胆して劉備は帰るしかなかった。数日後、劉備はまた訪ねて行ったが、やはり会うことは出来なかった。

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 しかし、何故にそれほどまでに身を屈するのかと咎【とが】める関羽と張飛をおしとめて、劉備は三度孔明を訪ねてようやくその目的を果たした。

 「すでに漢室は傾き、奸臣が天下を盗んでおります。私は身の程もわきまえず、天下に大義をのべようと志しながらも、知力あさく、これという働きも出来ないまま今日に至りました。しかし、まだ志は捨てておりません。どうかお力添えをいただきたいと存じます。」

 いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのだった。孔明もその知遇に感じ、草廬を出て劉備のために事を謀る決心をした。草廬に世を避けていたとはいいながら、孔明の時勢に対する眼は劉備の期待を裏切らず鋭かった。劉備の問いに答えて、孔明は漢室復興の大計をこう述べた。

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 「荊州と益州の要害を抑えてここを根拠地とし、西方南方の蛮族を慰撫して後顧の憂いを絶ち、内は政治をおさめて富国強兵をはかり、外は孫権と結んで曹操を孤立させ、機を見て曹操を伐つ、これが私の考えている漢室復興の大計です。」いわゆる「天下三分の計」である。劉邦の臣となった孔明はこの基本政策に従って着々を漢室復興の歩を進めていった。

 孔明を得た劉備は、その才幹に傾倒して孔明を師として敬い、寝食を共にした。孔明も全能力をしぼって劉備のために尽くした。ところが、これを快く思わない者がいた。

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張飛

 その一人が張飛【ちょうひ】、字は益徳。身長は8尺(約184cm)。人並み外れた勇猛さで知られた猛将である。

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関羽

 もう一人が関羽【かんう】、字は雲長。身長は9尺(約208cm)。見事な鬚髯【しゅぜん】(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、髯公【びぜんこう】とも呼ばれ、 人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操からも称賛された。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝と呼ばれる道教の神となった。関帝は旧くは武神として、現在は主に商業の神として信仰され、横浜や神戸の中華街にも祀られている。

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 劉備、関羽、張飛の3人は黄巾の乱の義兵として立ち上がった時、張飛の屋敷の裏の桃園で義兄弟の誓いを交わしている。「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれことを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后士よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮【りく】すべし。」これを「桃園の誓い」という。

 一番早くから劉備に従って来た2人にしてみれば、若輩の孔明に対する劉備の傾倒ぶりが気にくわない。ある時、孔明を妬んで「孔明を敬いすぎる」と劉備を非難した。その時、劉備は言った。

「この孔明あるは猶【なお】魚の水あるがごとし。願わくは復【また】言うこと勿【なか】れ。」孔明を得たことを、自分は、魚が水を得たとでも喩えたいほどだ。二度とそんなことは言うな。」
ここに、「水魚の交わり」という喩えが生まれた。

※人物の肖像は中国テレビドラマ三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/11/08 10:17 】

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