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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー出師の表

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曹操

 袁紹【えんしょう】を討って華北の平定に成功した曹操は、208年丞相【じょうしょう】(君主を補佐する最高官)となり、南下して劉表の領土になっていた荊州【けいしゅう】を攻めた。劉表の子は曹操に降り、劉表の客分であった劉備は、いったん南に逃れたが、諸葛亮の活躍で孫権との同盟に成功した。孫権の部下のなかには曹操に降伏しようと説く者もあったが、周瑜【しゅうゆ】、魯肅【ろしゅく】が孫権に、劉備と同盟して荊州を占領することを勧めたのである。

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 劉備・孫権の同盟軍と曹操軍が208年12月に長江の赤壁【せきへき】(現在の湖北省)で激突した。

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劉備             孫権

 『三国志演義』では、曹操軍は荊州の軍と併せて約100万、これに対して呉軍は約10万、劉備軍は約3万となっている。しかし、史実では曹操軍約20万、孫権軍約2万、劉備軍約2,000であり、『三国志演義』ではかなり誇張されているが、連合軍が劣勢であったことに変わりはない。

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 赤壁の戦いは2008年に「レッドクリフ」のタイトルで映画化されたので、内容をご存じの方も多いと思うので、簡単に説明させていただく。曹操は荊州から長江沿いに南下、ここから夏口に軍を進めようとしたが、水上と陸上から東へ進軍する曹操軍内では、慣れぬ南方の風土と食べ物が原因で疫病が蔓延する。そこで曹操は一気に夏口を攻略することを諦め、長江に面し崖の土が赤いことから「赤壁」と呼ばれる場所で軍を停止させる。曹操軍は赤壁の対岸の烏林に野営地を築き、水軍は流されないよう鎖でつなぎ、水上の要塞を作り上げた。

 曹操軍停止を知った孫権軍の周瑜【しゅうゆ】率いる3万は、ただちに赤壁に集結した。この時、周瑜の部将の黄蓋【こうがい】は敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を提案する。黄蓋は自ら火船隊を率い、投降すると見せかけて曹操軍に接近した。黄蓋の裏切りを信じた曹操軍は、火船隊の接近を許してしまう。

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 ところが,、問題なのは風向き。南から攻めていこうとする孫権軍にとって、火攻めをするために必要なのは東南の風なのだが、この季節、北風ばかりが吹いている。そこに登場するのが諸葛亮。急ごしらえの祭壇を造り、七星壇と名づけた場所で祈祷を行い、いつも手にしている羽毛扇を振るやいなや、東南の風が吹き始める。諸葛亮は「嵐を呼ぶ男」だ。


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 東南の風が吹き始めると、黄蓋は油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。さらに、陸に逃げた曹操軍も関羽の軍に破られ、曹操は南下を断念した。ここに孔明の構想した「天下三分の計」が実現し、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国が鼎立する三国時代となった。

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曹丕

 220年、曹操が亡くなり、曹丕【そうひ】が魏王となり丞相職を継承。さらに、献帝に禅譲を迫って皇帝(文帝)の座に即いた。これに対抗して、翌221年に劉備が蜀漢の皇帝(昭烈帝)に即位、222年には孫権も呉の皇帝となり、名実ともに三国時代となったのである。

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劉禅
 
 221年、劉備は関羽の仇を討つべく、呉への親征を行った。しかし、夷陵の戦いに大敗を喫し、223年6月、逃げ込んだ白帝城で63年の生涯を失意のうちに終えた。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子・劉禅が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず君が国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。その結果、劉禅が17歳で蜀漢第2代皇帝として即位した。

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 益州南部4郡を平定した諸葛亮は227年にいよいよ魏に対する北伐を開始した。北伐にあたり劉禅に上奏したのが有名な「出師の表【すいしのひょう】」だ。(師は軍隊のこと)古来から名文中の名文とされており「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と言われたほどだ。諸葛亮は228年にも「出師の表」を上奏したとされ、これを「後出師の表」というが、どうも偽作らしい。

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 写真は成都にある武侯祠(諸葛亮と劉備の墓)に遺された岳飛【がくひ】による「出師の表」の石碑からとった拓本。岳飛についてはまた改めて書くけど、女真族の金と幾度も戦い勝利を収めた南宋の将軍で、中国史上最も愛された最強の英雄だ。以前成都に行った時に拓本を買って来た。ご覧の通り素晴らしい書なんで、臨書しようと思って買ったんだけど、残念ながらまだ臨書してない。

 「臣、亮、言【もう】す。先帝創業未【いま】だ半【なか】ばならずして、中道に崩殂【ほうそ】せり。今、天下三分し益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋【とき】なり。然れども待衛【じえい】の臣、内に懈【おこた】らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋【けだ】し先帝の殊遇を追い、これを陛下に報いんと欲すればなり」で始まり、劉禅に人材の重要性を説いた後、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回(三顧の礼)も訪れて自分を登用してくれたことに感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、最後をこう結んだ。

 「臣、恩を受けて感激に勝【た】えず。今、遠く離るるに当り、表に臨んで涕泣【ていきゅう】し、云う所を知らず。」

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 司馬懿

 北伐は5度にわたって行われたが、諸葛亮と激しく戦ったのが魏の将軍・司馬懿【しばい】で、字は仲達【ちゅうたつ】。諸葛亮は234年2月、5度目の北伐を行った。諸葛亮は持久戦の構えをとって五丈原【ごじょうげん】で司馬懿と長期に渡って対陣したが病に倒れ、8月陣中に没した。54歳という若さだった。恐らく、過労死だろうね。

 司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。後世の人はこれを、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言った。

 諸葛亮が没して30年余り後の265年、司馬懿の孫が魏を滅ぼし、晋(西晋)を建国することになる。

※人物の肖像は中国テレビドラマ三国志 Three Kingdoms』から拝借しました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/11/12 05:28 】

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