なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2世紀半ばから匈奴【きょうど】にかわってモンゴル高原を支配した鮮卑【せんぴ】は、五胡【ごこ】十六国時代には五胡の一つとして内モンゴル・華北に侵入し、慕容【ぼよう】氏の前燕などいくつかの国を建てたが、396年には拓跋【たくばつ】氏の拓跋珪【たくばつけい】(道武帝)が北魏を建国した。439年には第3代の太武帝が北燕、北涼、夏を併合して華北を統一、五胡十六国時代に終止符を打った。太武帝は寇謙之【こうけんし】を重用して道教を保護し、中国史上初めて仏教を弾圧(廃仏)したことで知られる。
太武帝は452年に宦官に殺害されて45歳の生涯を終え、亡き皇太子の嫡男であった拓跋濬【たくばつえい】が文成帝として即位した。文成帝は仏教弾圧を廃止し、曇曜【どんよう】に命じて都の平城【へいじょう】(現在の大同)の郊外に雲崗石窟の造営を始めたことで知られる。
しかし、465年に文成帝はわずか26歳で亡くなってしまう。彼女は悲しみのあまりに文成帝の遺体を火葬する際に火中に身投げしたが救出されて一命を取り止めた。
献文帝
文成帝の子・拓跋弘(母は李皇后)が即位して献文帝となり、文明皇后は皇太后となった。以後は馮太后【ふうたいごう】と呼ばれることになる。文成帝はわずか11歳で即位したので、馮太后が実権を握り垂簾聴政【すいれんちょうせい】を行った。
しかし、献文帝が成長するにつれて対立が生じ、皇太后は献文帝を脅迫して471年に献文帝の息子・拓跋宏に譲位させた。これが、わずか5歳で即した第6代皇帝の孝文帝である。馮太后はその5年後には献文帝を毒殺して、北魏の全権を掌握、事実上の女帝として政治改革を断行した。均田制や三長制は孝文帝の政策として高校世界史では教えているけど、実は彼女が行ったことなんだ。高校世界史では教えないけど、馮太后は唐を滅ぼして皇帝となった則天武后なみの政治手腕を発揮した女傑なんだ。
ところで、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、馮太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。
もうひとつ、孝文帝は馮太后の義理の孫にあたるわけだけど、二人は本当の母子だったとする説がある。孝文帝は献文帝が13歳の時の子なんで、子を作るには早すぎるとかいった理由などがあげられてるけど、じゃあ孝文帝の父親は誰だ?ってことになる。でも、謎のままで分かっていない。
馮太后は490年に49歳で亡くなった。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。これも、馮太后が孝文帝の実母ではないかと疑わせることになった。
ところで、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、馮太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。
もうひとつ、孝文帝は馮太后の義理の孫にあたるわけだけど、二人は本当の母子だったとする説がある。孝文帝は献文帝が13歳の時の子なんで、子を作るには早すぎるとかいった理由などがあげられてるけど、じゃあ孝文帝の父親は誰だ?ってことになる。でも、謎のままで分かっていない。
馮太后は490年に49歳で亡くなった。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。これも、馮太后が孝文帝の実母ではないかと疑わせることになった。
馮太后が亡くなって孝文帝の親政が始まった。基本的には馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を進めた。漢化政策は簡単に言えば、漢民族に憧れて漢民族になりきろうとした政策のことだ。まず、493年には平城から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、南朝の斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。
無茶苦茶なのは鮮卑の言語・姓名・服装を禁止して中国風に改めさせたことだ。宮廷では鮮卑語の使用は禁止。30歳以下の官吏が鮮卑語を使ったら左遷された。征服した側が自らの言語を強制したというのなら話は分かるが、これじゃあべこべ。それから、姓も漢風にしろってんで、自ら「拓跋」から「元」に改め、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。
鮮卑は騎馬民族だ。だから馬に乗りやすい服装をする。
筒袖の上着にズボン、これにベルトをして、ブーツを履くというのが騎馬民族のスタイルだ。これを中国では胡服と言った。これがヨーロッパに入って、それから日本に入って来たんで、日本では洋服と言う。これが野蛮な服装だと言うんで、止めさせた。
で、こんな格好になったって訳だ。
じゃあ、何故そんなに漢民族になりたかったのか?孝文帝は自分たちが漢民族じゃないということは、もちろん分かっている。でも、現実に中国を征服しちゃった。そうすると、なぜ俺たちは中国の皇帝になれたのだろうか、という自分たちの正統性について疑義が生じてしまう。漢民族だったら、自分が皇帝になったのは、前の皇帝が悪政を行なったので、天が怒って風水害を起こし人民を蜂起させて、自分を皇帝に指名してくれたんだ。だから皇帝の姓が変わったんだ。すなわち、易姓革命であるという、大義名分が成立する。だけど、自分たちは漢民族じゃないんで、中国を治める正統性の根拠について悩んだ。その結果、「そうだ、漢民族になりきってしまえばいいんだ。そうしたら易姓革命で天が命じて皇帝になったと、言えるじゃないか」と考えて、強引な漢化政策を進めたという訳なんだ。
でも、この無茶苦茶な漢化政策に不満を持つ者が反乱を起こす。これは何とか鎮圧したが、孝文帝の死後に六鎮【りくちん】の乱が起き、北魏は東西に分裂することになる。やはり行き過ぎは駄目ですね。
写真は文成帝が造営を始めた雲崗石窟第20窟の如来座像で、北魏初代皇帝の道武帝の姿を模したものと言われている。曇曜が建立した大仏はこれをこれを含めて5体あるが、北魏の初代から文成帝までの5人に擬した巨仏とした。これは太武帝の廃仏に懲りた曇曜が、たとえ北魏の皇帝の気が変わっても破壊されないようにするためだったんだってさ。見るからに西域の香りがして、ガンダーラ・グプタ様式の影響が色濃く見られる。
雲崗石窟の造営は孝文帝が洛陽に遷都したことで工事が中断され、新たに洛陽郊外の竜門石窟の造営が始まった。孝文帝が漢民族になろうとしたことを受けて、竜門石窟にはインド・西域の影響は希薄となり、中国風の意匠となった。写真は唐の時代に造られた奉先寺の盧舎那仏【るしゃなぶつ】像で、その顔は則天武后の容貌を写し取ったものという伝説があるが、現在では否定されている。
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