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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー悲運の破戒僧・鳩摩羅什

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キジル千仏洞に立つ羅什像

 鳩摩羅什【くまらじゅう】、サンスクリット語でクマーラジーヴァ。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、玄奘【げんじょう】とならび二大訳聖としてその名を知られている。

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 羅什の父・鳩摩羅炎【くまらえん】(クマーラヤーナ)はカシミールの生まれで、天竺【てんじく】国(インド)で代々宰相をつとめる名家の出身であった。しかし、彼は宰相の地位を辞退して出家し、葱嶺【そうれい】(パミール)を超え、亀茲【きじ】国(現在のクチャ)にたどり着いた。彼に一目惚れしたのが亀茲国王・白純の妹の耆婆【ぎば】(ジーヴァ)であった。白純に懇願された鳩摩羅炎は還俗し、耆婆と結婚。二人の間に生まれたのが鳩摩羅什である。西暦350年のことであった。

 羅什の母・耆婆は羅什が5歳の時に出家している。夫の鳩摩羅炎も兄である亀茲王・白純も猛烈に反対したが、彼女の意志を覆すことは出来なかった。僧侶であった鳩摩羅炎を還俗させてまで結婚に踏み切った彼女が、なぜ出家したのであろうか?羅什には弗沙提婆【ふさだいば】という弟がいたが、幼くして亡くなったようで、それが動機であったのかも知れない。鳩摩羅炎は再び僧侶となることも許されず、王室の庇護も失い、どこともなくその姿を消すことになったと伝えられている。

 羅什も7歳で出家しているが、母の強い願いによるものであった。そして、9歳の時に母とともに辛頭河(インダス川)を渡り、罽賓【けいひん】国(現在のカシミール)に留学している。罽賓国で3年間小乗仏教を学んだ羅什は、亀茲への帰途立ち寄った疏勒【そろく】国(現在のカシュガル)で須利耶蘇摩【すりやそま】と出会い、大乗仏教を学んだ。羅什は、「私が昔、小乗を学んだのは、黄金を知らない人が鍮石【ちゅうせき】(真鍮のこと)をもって最高と思い込んでいたようなものだ」と嘆じ、大乗仏教に目覚めた。須利耶蘇摩は左手に法華経を持ち、右手で少年羅什の頭を3回撫でながら、こう言ったという。

 『仏日西に入って遺耀【いよう】まさに東に及ばんとす。この経典東北に縁あり。汝慎んで伝弘せよ』 


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 亀茲国に戻った羅什は、雀離【じゃくり】大寺(昭怙厘【しょうこり】大寺)で大乗仏教を講義し、その名声はやがて中国にも知られるようになった。現在のキジル千仏洞がその雀離大寺であると考えられている。キジル千仏洞はムザト川沿いに3.2kmにわたって開削され、現在、236窟が確認されている。平成12年と18年に2度、この地を訪れることが出来たことは、無上の喜びであった。

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 写真はスバシ故城。ここも雀離大寺の候補にあがっているが、はっきりとしたことは現在でも分かっていない。

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 前秦の国王苻堅【ふけん】が将軍呂光【りょこう】に亀茲国征討を命じた目的は、領土の拡大とともに名僧として名高い羅什を国師として長安に迎えることにあった。呂光によって亀茲国が滅びた時、羅什は34歳。生来、粗暴であった呂光は羅什がまだ若年であるのを知り、羅什をあなどり、彼を跪かせるため邪悪な企みをしかけた。彼に仏の戒律を破らせようと、亀茲王女と結婚するよう強要したのである。羅什は激しく拒んだが、呂光は羅什に無理やり酒を飲ませ、王女とともに密室に閉じ込めてしまった。羅什がはたして本当に女性と関係を持ったのか。真相は羅什本人にしか分からない。しかし、破戒僧の烙印を押されたことだけは紛れもない事実なのである。

 羅什は恥辱にまみれて中国へと連行されることになった。ところが、一行が涼州に至った時、呂光は国王苻堅が殺害され、前秦が滅びたことを知る。帰るに帰れなくなった呂光は、涼州にとどまり自ら後涼を建国する。涼州で幽閉生活を送ること15年。後涼が後秦の姚興【ようこう】に滅ぼされ、羅什は51歳にしてようやく長安に入った。

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 それから59歳で亡くなるまでの8年の間に、『妙法蓮華経』『阿弥陀経』をはじめとする35部294巻の翻訳にあたった。『法華経』の訳出は56歳の時。13歳の時に須利耶蘇摩から法華経の原本を手渡されてから、実に43年の歳月が流れていた。後秦の姚興は10人もの女性を侍らせ、羅什の優秀な頭脳を受け継ぐ子を残させようとしたとも伝えられている。

 羅什は毎朝、弟子たちに講説するたびに、こう述べていたという。「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥をとることなかれ」

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 羅什の遺骨は長安郊外の草堂寺に葬られた。写真が羅什の舎利塔であるが、中国仏教界に大きな影響をもたらした偉大な訳経僧のものとしては、あまりにも小さい。破戒僧だからであろうか。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/11/18 05:54 】

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