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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー異民族の花盛り・五胡十六国

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司馬炎(武帝)

 266年、司馬炎【しばえん】が魏を滅ぼして晋【しん】を建国し、武帝となった。司馬炎は諸葛亮と5度に渡って戦った司馬懿の孫にあたり、祖父さんの遺産で皇帝になったようなもんだ。晋は280年に呉も滅ぼして三国時代に終止符を打ち、中国の再統一を果たした。

 魏は建国わずか46年で滅びたわけだが、武帝はその原因を王室の一族を政権から遠ざけていたことだと考え、司馬氏一族を各地に封建して王とした。しかし、これが裏目に出てしまう。

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 せっかく統一を果たしたが、その後が良くない。武帝は国政に関心を示さなくなってしまう。女子の婚姻を禁止して、自分の後宮に入れるための女子を5000人選んだ。さらに呉の後宮にいた5000人も自分の後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、武帝は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に塩を盛っておいた。羊が塩をなめるために止まるからである。よく料理店の店先に人寄せのための縁起担ぎとしての盛り塩がしてあるけど、これが起源なんだってさ。

司馬衷
司馬衷(恵帝)

 武帝は長年の荒淫がもとで病没し、息子の司馬衷【しばちゅう】(恵帝)が即位したが、これがまたお馬鹿さん。ある時、華林園で蛙の声を聞くと、恵帝は側近の者へ「この蛙は公事のために鳴いているのか、それとも私事のために鳴いているのか」と尋ねた。すると、ある者がからかって「公有地にいる時は公のために、私有地にいる時は私のために鳴いているのですぞ」と返したという。

 また、天下が荒れ果てて民衆が飢餓に瀕している時、恵帝は「(穀物がないのならば)何故肉粥を食べぬのか」と言ったと伝えられてる。これ、ヴェルサイユ宮殿に押しかけて、「パンよこせ」と騒いでいるパリの母ちゃん連中に、「パンがないなら、ケーキを食べなさいよ」と言ったマリ=アントワネットと一緒じゃん。

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 そんなわけで、政治の実権は皇后である賈南風【かなんぷう】とその外戚が掌握した。この女、容貌醜く背が低く色が黒い上に、嫉妬深いときているから始末が悪い。恵帝がまだ皇太子の時代に、恵帝の子を妊娠した妾に嫉妬し、胎児ごと殺してしまった。皇后となってからは、邪魔な奴は皆殺し、思うがままに政治を操った。淫乱も凄まじく、街中で美少年を見つけると竹箱に入れて誘拐し、これと交わった後は、ことの発覚を恐れて彼らは殺された。

 300年、趙王・司馬倫が賈南風を殺害し、帝位を簒奪したが、翌年に一族の諸王も各地で兵を挙げ大混乱に陥り、洛陽は廃墟と化した。いわゆる八王の乱である。面倒臭いが、いちおう8人の名を挙げておこう。 

 ①趙王・司馬倫(司馬懿の9男) ②汝南王・司馬亮(司馬懿の3男)③楚王・司馬瑋(司馬炎の5男) ④斉王・司馬冏(司馬炎の同母弟) ⑤長沙王・司馬乂(司馬炎の6男) ⑥成都王・司馬穎(司馬炎の16男) ⑦河間王司馬顒(司馬懿の弟の孫) ⑧東海王・司馬越(司馬懿の弟の孫)

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 この時、諸王は華北に浸透していた匈奴など異民族と勝手に手を組み、その軍事力を利用したことから、異民族の台頭を招き、匈奴・羯【けつ】・鮮卑・氐【てい】・羌【きょう】のいわゆる五胡【ごこ】が華北に進出。次々と建国し、その数は16カ国となったので、五胡十六国時代というが、うち3カ国は漢族の国なので、正確には五胡十三国である。

 「胡」は中国の北方・西方の異民族に対する蔑称で、日本語では「えびす」と読む。この他に異民族に対する蔑称として「四夷」がある。北狄【ほくてき】・西戎【せいじゅう】・南蛮【なんばん】・東夷【とうい】で、総称して「夷狄」とも言う。漢字を見ての通り、獣や虫けら扱いだ。

 胡がついた言葉をあげると、胡瓜・胡桃・胡椒・胡麻・胡坐などたくさんあるが、これらはすべて異民族由来のものである。皆さん読めますか?読み方は一番最後に挙げておくね。

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劉淵

 306年に恵帝が中毒死し八王の乱は終結し、恵帝の弟が即位して懐帝となる。しかし、晋の国力衰退は明らかであり、これを好機とみたのが匈奴の劉淵【りゅうえん】であった。身長190cmもある大丈夫であった彼は八王の1人であった司馬穎に従い鄴【ぎょう】に駐屯していたが、304年に山西で自立して匈奴大単于を名乗った。劉淵は、かつて冒頓単于が漢と兄弟の契りを結び漢の皇族を妻に娶っていたことから、匈奴と漢とは甥の関係であるとし、自らを前漢・後漢・蜀漢の後継者と称した。そのため、国号を漢と名乗った(劉淵死後に改称して前趙となっている)。この年は、四川地方で五胡の一つ、氐族の李氏が成国を建てており、五胡十六国時代の始まりとされる。

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 司馬騰を破り山西省南部を勢力範囲に収めた劉淵は、308年に平陽を都にして帝位につき、異民族出身者として初めての皇帝となった。しかし、洛陽の陥落を見ることなく、310年に60年の生涯を終えた。

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劉聡

 劉淵のあと長男の劉和が後を継いだが、人望が無く異母弟の劉聡【りゅうそう】が取って代わった。311年、劉聡は石勒・劉曜・王弥らの大軍を洛陽に差し向け、洛陽は略奪暴行の限りが尽くされて都市は焼き払われ、皇族・貴族・市民ら何万人もが殺戮された。懐帝の皇后羊氏はなんと劉曜の妻とされるありさまであった。懐帝は玉璽と共に平陽に連行され、劉聡から屈辱を受け続けて2年後の313年に処刑され、永嘉の乱は終結し、晋は事実上滅亡した。懐帝の後を受けた甥の愍帝【みんてい】は漢に抵抗したが、316年に長安も陥落し晋は名実ともに滅びた。愍帝は懐帝と同じ扱いを受けた上、317年に劉聡によって処刑されたが、わずか18歳であった。

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 晋(西晋)の滅亡後も、華北では五胡の建てた国が乱立し、この情勢は439年に北魏の太武帝による統一まで続く。一方が江南では、晋の王族であった司馬睿【しばえい】が318年に建康を都として晋を再興(東晋)した。東晋は383年に中国統一をめざして南下した前秦の苻堅【ふけん】を淝水【ひすい】の戦いで破り、以後は淮河【わいが】を境界とした南北で対抗するという形勢が定まり、この状態は隋による統一まで続くことになる。


※胡瓜【きゅうり】・胡桃【くるみ】・胡椒【こしょう】・胡麻【ごま】・胡坐【あぐら】

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/11/20 08:19 】

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