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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー恐妻家・文帝と馬鹿息子・煬帝

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宣帝

 鮮卑族の王朝である北周の第4代皇帝の宣帝、名は宇文贇【うぶんいん】。北魏の太武帝に続き仏教を弾圧(三武一宗の法難)したことで知られる武帝の長男で、578年に20歳で即位した。宣帝は周囲から皇太子としての資質を疑問視されており、父武帝から厳しい教育を受けた。酒を禁じられ、過ちがあると仮借なく鞭の折檻を加えるなど冷酷なまでに厳しく育てられた。そんな父親を心の底から怨んでいた宣帝は、武帝が死ぬや、父から受けた鞭で打たれた傷痕を撫でながら、「死ぬのが遅い」と罵ったという。また武帝の通夜が済まないうちから、武帝の宮人たちに淫行を迫ったともいう。

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楊麗華

 宣帝の皇后となったのが楊麗華【ようれいか】。楊堅【ようけん】と独孤伽羅【どっこから】の長女である。

文帝 
楊堅

 楊堅は後漢の名門楊氏を遠祖とすると伝えられるが、北方異民族の血も混ざっていると推測されている。父親の楊忠は西魏の八柱国大将軍・独孤信に従った軍人で、やがて自らも八柱国大将軍に次ぐ十二大将軍となった。独孤信の七女が独孤伽羅である。楊堅は娘・麗華が皇后になったことで、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。

静帝
静帝

 一方、宣帝は在位1年にも満たない579年に、位を7歳の太子にゆずって静帝(お母さんは楊麗華ではない)とし、自ら天元皇帝と称した。天子たる責任を回避して道楽に専念するためである。5人の皇后を立后し、酒色に走った。人民は皇帝の奢侈淫蕩のための土木工事に労役として駆り立てられた。580年、無軌道な隠居皇帝が22歳で死ぬと、外戚楊堅に実権が帰したのみならず、国民の信望すら彼に移っていった。

 581年2月、楊堅は静帝から禅譲させて即位した。これが隋の初代皇帝・文帝である。文帝という諡はその政治が儒教理念からみて高く評価されたためであり、仁慈の君とされているが、即位した翌月には静帝を殺している。わずか9歳であった。もちろん北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにしてしまうことも忘れなかった。


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 文帝は589年に南朝の陳を滅ぼして、約370年ぶりに南北統一に成功。内政では新都・大興城【だいこうじょう】(長安)の造営・運河の開削、均田制・府兵制・租庸調制の体系化、九品中正を廃止し科挙を創設するなど、中央主権化に努めた。また、倹約を旨に政務に励み、国力を充実させて、その治世は「開皇の治」と称された。

 ちなみに、楊堅の北周時代の爵号は隨国公なので国号は「隨」となるのが本来であった。しかし、「隨」に含まれる辵(しんにょう)部に「走る」という意味があるので、王朝が走って早く滅びてしまうと、楊堅は縁起を担いで辵部を取ってしまった。それが「隋」という字なんだ。知ってた?ところが、隋は南北統一からたった30年で滅びてしまう。

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楊広(煬帝)

 それもこれも、こいつのせいだ。文帝の次男坊の楊広、後の煬帝【ようだい】である。楊広は幼い頃から気どりやの美男で賢く、陳討伐の際には、討伐軍の総帥として赫々たる武勲を残したこともあり、お母さんの自慢の息子であった。お母さんは誰だっけ?

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 そう独孤信の娘・独孤伽羅だったよね。14歳で楊堅に嫁ぎ、楊堅が皇帝となり皇后に立てられた。文帝には男の子が5人いたんだけど、全員独孤皇后の産んだ子だ。これ中国では大変珍しいことなんだけど、それにはもちろん訳がある。

 独孤皇后は楊堅に嫁いだ時、自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に誓約させた。皇帝となった文帝がある女性を寵愛したことがある。ところがそれを知った皇后が密かにその女を殺してしまった。文帝は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入ってしまう。嫁さんを追い出したのではなく、自分が家を出てしまったわけだ。何とも情けない。侍臣が皇帝を追いかけて、「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と諫めた結果、文帝は宮廷に戻り、皇后も泣いて詫びたので、二人は仲直りをした。そんな事件もあったので、文帝は後宮に寵愛したい美人がいても、皇后の監視が厳しくて手が出せなくなったという訳だ。

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楊勇

 皇帝だけではない。皇后は自分の王子でも家臣でも、妾に子を産ませた者を憎み卑しんだ。楊広は蓄妾を憎む母の前では、後宮の女に子が出来てもすべて育てず、王妃以外に女なしと装っていた。一方、皇太子であった長男坊の楊勇と言えば、母がもらってやった妃元氏を疎んじて、他の女に熱中するようになった。おまけに妃元氏が急死する事件が起きたことで、独孤皇后は太子が豚犬にも等しい女を可愛がって妃元氏を毒殺したと思い込んでしまう。こんなことで、楊勇を廃嫡して庶民の身分に落とし、楊広を皇太子とした。


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宣華夫人

 602年、厳格な独孤皇后が50歳で亡くなると、文帝は長い間窮屈な思いをして皇后に頭があがらなかったのが、今こそ解放されたと思い、若い江南の美人二人を寵愛した。その一人宣華夫人は南朝陳の宣帝の娘だ。しかし、文帝はすでに60歳を越えていた。無理が祟ったのか、2年して病気に罹り危篤となり、仁寿宮で病床についた。


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 宣華夫人と楊広が夜を徹して看病していたが、朝になって着替えに出た宣華夫人に楊広が関係を迫り、陳氏はこれを拒んで文帝のところに逃げ帰った。文帝が怪しんで問い質すと、宣華夫人は楊広の無礼を訴えた。文帝は「畜生、何ぞ大事を付するに足らん。独孤、誠に我を誤てり」といって激怒し、侍臣に廃太子の楊勇を召し出すよう命じた。

 これを聞いた楊広は腹心の者を病室に入れ、夫人をはじめ看病している後宮の者をみな別室にさがらせた。その後で、俄に文帝は崩じたのであった。時に64歳。その夜、楊広と宣華夫人は関係した。こうして即位したのが第2代皇帝の煬帝であり、即位後、文帝の遺詔と称して楊勇を自殺させ、10人の子もことごとく殺害され、楊勇の血筋は断絶した。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/11/24 05:12 】

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