なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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父・文帝を弑逆【しいぎゃく】して帝位についた煬帝は、皇帝の威光・権力を天下に誇示するため、大土木工事を驚くべき物力・人力を投じて行っていく。先ず、毎月200万人を動員して旧洛陽城の西方に東京を築いた。「とうきょう」じゃなくて、「とうけい」。日本の東京も明治の始め頃は「とうけい」と呼んでたんだよ。
続いて大運河だ。文帝の時代にすでに淮河【わいが】と長江を結ぶ山陽瀆【さんようとく】(
まず初めに黄河と淮河を結ぶ通済渠【つうさいきょ】が造られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠【えいさいきょ】、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて僅か5か月で完成した。中国史上、女性まで労役にかり出した皇帝は他にいない。なお、永済渠はあとで話す高句麗遠征のためのものだ。
大運河が完成した605年8月、煬帝は洛陽の顕仁宮から江都までの最初の行幸を行った。大運河沿いには40の離宮が建設されており、文武百官や女官を伴い大運河を遊覧しながら江都まで下って行く。近衛兵を加えると全部で約20万人が随行した。煬帝の乗る龍船は高さ13m、長さ60m、4層造りで、上層には正殿・朝堂があった。護衛船も含めて5100艘余りに上る大船団の長さは90キロに及んだという。
船には動力が無いので、民衆に命じて船を曳かせたが、そのために沿道の住民8万人が動員された。その上、沿道250キロ以内の州と県に飲食の提供を命じ、食べきれないものは河岸に埋めたという。このようなぜいたくや浪費は、沿道の官吏や民衆に大きな苦痛を与えた。煬帝は冬を気候の暖かい江都で過ごし、翌年4月に洛陽に帰った。煬帝は江都が大のお気に入りで、3度江都行幸を行ったが、最後に江都で殺されることになる。
612年、煬帝は113万をこす大軍を率いて高句麗親征を敢行した。山東半島では300隻の船を急造し、河南・淮南・江南は兵車5万台の供出の命を受けた。兵以外の軍役労働者の徴発は230万人という数にのぼった。山東の造船工人は悲惨の極みで、昼夜兼行の水中作業で腰から下が腐爛して蛆が生じ、10人に3,4人も死んで行った。こんな残忍な人民酷使をして敢行した対高句麗戦争は、遼東城で前進を阻まれ、退却の際に莫大な損害を被って帰還した。敗戦の報が伝わると、中国各地に反乱が起こったが、そのような情勢を無視して、第2次、第3次の遠征が行われた。しかし、ことごとく失敗に終わり、隋の威信は失墜、急速に民衆の支持を失っていった。
616年7月、煬帝は周囲の反対を押し切って、3度目の江都行幸を強行する。江都の宮殿では佞臣の献上する江淮の美女で満ち酒宴続きである。反乱軍の進撃、官軍の敗退の報は次々に江都に報ぜられたが、煬帝は千余の美女に囲まれて王杯を離さなかった。ついに、親衛隊の長官であった宇文化及【うぶんかきゅう】兄弟が背いて皇帝に刃を向けた。煬帝は皇帝らしく毒酒による自害を望んだが、身につけていた絹で絞め殺された。
隋が短命に終わってしまった理由は、ひとえに煬帝の悪政の結果であるが、数字をあげるとこれがはっきりとする。父・文帝は自ら質素倹約て国政を指導した結果、全国の戸数は890万戸となった。これが、煬帝亡き後には僅か200万戸にまで減ってしまっている。ここから彼の諡号が煬帝となったのであるが、「煬」という字には「天に逆らい民を虐げる」という意味がある。
616年7月、煬帝は周囲の反対を押し切って、3度目の江都行幸を強行する。江都の宮殿では佞臣の献上する江淮の美女で満ち酒宴続きである。反乱軍の進撃、官軍の敗退の報は次々に江都に報ぜられたが、煬帝は千余の美女に囲まれて王杯を離さなかった。ついに、親衛隊の長官であった宇文化及【うぶんかきゅう】兄弟が背いて皇帝に刃を向けた。煬帝は皇帝らしく毒酒による自害を望んだが、身につけていた絹で絞め殺された。
隋が短命に終わってしまった理由は、ひとえに煬帝の悪政の結果であるが、数字をあげるとこれがはっきりとする。父・文帝は自ら質素倹約て国政を指導した結果、全国の戸数は890万戸となった。これが、煬帝亡き後には僅か200万戸にまで減ってしまっている。ここから彼の諡号が煬帝となったのであるが、「煬」という字には「天に逆らい民を虐げる」という意味がある。
煬帝が江都で50年の生涯を終えた頃、すでに長安は李淵【りえん】によって占領されていた。李淵は煬帝が殺されたことを知ると、恭帝(隋第3代皇帝・煬帝の孫)から禅譲を受けて自ら皇帝となり、唐を開いた。
誰かが歌い出した。「江【かわ】の南でやなぎが散れば 河北【きた】じゃすももの花ざかり」
煬帝の姓である楊は「やなぎ」のこと。柳という字もあるが、これは「しだれ柳」のこと。楊は中国では「カワヤナギ」のことで、楊枝【ようじ】の材料となる。自らの姓が「やなぎ」だから、煬帝は運河沿いに日よけのために柳の木を植えた。一方の李淵の李は「スモモ」のこと。「桃李もの言わざれども下自ら蹊【こみち】を成す」という言葉があるよね。『史記』李将軍伝賛に出てくる言葉で、徳望のある人のもとには人は自然に集まることの喩えで、俳優の松坂桃李の名前はお父さんがこの言葉からつけたんだけど、知ってた?
話が横道に逸れてしまったけど、中国の皇帝はヤナギさんからスモモさんに代わったって訳だ。
元貞太后
李淵の母親である元貞太后の父は独孤信。独孤と言えば前回登場した文帝の皇后であった独孤伽羅がいたよね。彼女は元貞太后の妹なんだ。
系図を見ての通り、独孤信の長女は北周の明帝の皇后、4女は唐の高祖の皇太后、7女は隋の文帝の皇后になってるから凄いすよね。李淵と煬帝は従兄弟どおしだったから、文帝に寵愛されて16歳で隋に仕官し、出世を重ねた。李淵の祖父は西魏に仕えた豪族であり、漢化の進んだ鮮卑系と考えられる。北魏から隋唐にいたる王朝は、王室も外戚もいずれも北魏を建てた鮮卑系拓跋【たくばつ】部の有力者の出身であり、拓跋国家と呼ばれる。
李世民
ところで、李淵に挙兵を勧めたのは次男坊の李世民【りせいみん】であり、父を助けて創業の大功を挙げた。唐が開かれると李世民は宰相となり、軍事的にも大きな功績をあげた。
李建成
こうなると、黙ってはいられなかったのが兄の李建成【りけんせい】だ。長男なので皇太子に立てられてはいたが、いつ何時その地位を弟に奪われるかも知れない。そこで、たびたび李世民を父に誣告【ぶこく】し陥れようとした。
ところが、626年6月4日、長安の宮城北門の玄武門で、先手を打った李世民に襲撃され、弟の李元吉とともに李世民に射殺されてしまう。3日後の6月7日には李世民は皇太子となり、2ヶ月後の8月9日には帝位について父の高祖は太上皇帝に祭り上げられてしまった。こうして即位したのが唐の第2代皇帝の太宗【たいそう】であり、「貞観【じょうがん】の治」と呼ばれる唐帝国繁栄の時期を出現させることになる。
次男坊が兄弟を殺し、父親を排斥して帝位に就いたのは煬帝と同じじゃないか。煬帝を暴君に仕立て上げたのは、自分を正当化するために太宗がやったことかも知れないね。
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