FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー中国史上唯一の女帝誕生・武則天

C1210004349002_1_640_convert_20181105145858.jpg 
太宗

 唐の第2代皇帝の太宗・李世民は、その威風堂々たる風采、迷信を排斥し、儒教の精神をもって政治の方針としたこと、人材を集めたこと、そして何よりも臣下の諫言を素直に受け入れたことから、中国史上有数の名君の一人と称えられる。そして、中国の皇帝が一番失敗する女性に関しても、己を厳しく律して臨んだ。しかし、女禍の種は太宗本人が蒔くことになる。

29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5_convert_20181105144026.jpg 

 太宗は長孫皇后が亡くなった翌637年に、山西出身の14歳の美しい娘を後宮に迎えた。武照、後の則天武后である。ほどなく宮廷に「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。649年、太宗の崩御にともない、武照は太宗から受けた寵愛の思い出を胸に抱きしめて、感業尼寺の尼になった。
 
鬮伜ョ誉convert_20181105145149 
高宗

 太宗崩御の後、第9子の李治が即位し高宗となった。実は、太宗は自分の後継ぎのことでたいそう苦労している。当初立太子されたのは長男の李承乾であったが、太宗は第4子の李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を企てたとして廃された。しかも、喧嘩両成敗で李泰も追放されたため、結局おとなしくて気の弱い李治が皇太子に選ばれたのだが、これが武照が台頭する要因となった。すでに、太宗に殺害されることを恐れた武照に籠絡された李治は、妄信的に武照を寵愛するようになっていたのである。

0_convert_20181105145433.jpg

 高宗が父帝の菩提を弔うために、後宮の美女たちが出家している感業尼寺に行幸すると、武照は帝を前に声をあげて泣いた。深く感動した高宗はこれをいたわり、彼女を再び後宮に迎え入れた。この時、武照は33歳、高宗は28歳だった。これが、せっかく檻の中に繋いだ牝のライオンを連れ出してきたような結果になってしまう。

 これ、よく考えてみれば、お父さんのお妾さんを自分のお妾さんにした訳だ。儒教道徳を重んじる漢族なら不道徳極まりないことで考えられないことだが、李氏は北方民族出身だから、そんなの関係ね~。

邇狗嚊蜷酸convert_20181106165731   
 王皇后

 実は高宗に武照の入宮を推薦したのは王皇后である。高宗の寵愛を蕭淑妃【しょうしゅくひ】からそらすためだった。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。

 やがて武照は女児を産んだ。嫉妬している皇后がその室に見舞いに行った。武照はわが子を殺して褥【しとね】で覆い高宗の来御【らいぎょ】を待った。高宗が褥をとると、児は死んでいた。武照はさっき皇后が見えた時には元気であったのにと驚きかつ悲しみ泣いた。高宗の武照への愛情はいよいよ深まり、王氏を廃して武照を冊立しようとした。

隍・驕り憶_convert_20181105145404 

 これに反対したのは、高宗の伯父にあたる長孫無忌【ちょうそんむき】と褚遂良【ちょすいりょう】の二人だけであった。褚遂良は南朝の出身で虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】とともに初唐三大家の一人とされ、写真の「雁塔聖教序碑【がんとうせいきょうじょひ】」は楷書の傑作として有名だ。僕も書道を習っていた時はこれを臨書したもんだ。

 655年、武照を皇后に冊立する詔書が出され、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名は庶民に落とされ、諫言した長孫無忌と褚遂良を蹴落とされた。あとは宮廷内部の真空地帯である。何一つ妨げになるものはなかった。皇太子であったおのれの実子二人をはじめ、太宗、高宗の兄弟一族70余人、宰相・大臣級の高官36人を皆殺しにしてしまった。

阨ュ豺大ヲダconvert_20181105145337 
蕭淑妃

 年下の夫を持った女の嫉妬心を怖ろしい。高宗が廃皇后の幽閉の室を見舞ったことを知ると、武后は怒って、廃皇后を鞭打ち、手足を切って酒樽に放り込ませ、「骨まで酔わせてあげよう」と言った。蕭淑妃も同様の憂き目にあった。蕭淑妃は、「願わくば阿武(武后)老鼠【ろうそ】となれ、われ猫となってその喉を食らわん」と罵った。武后はその後、宮中で猫を飼うことを禁じたそうだ。これって、漢の呂后の真似したんだよね。なんとも怖ろしい。中国三大悪女に数えられるわけだよね。

 664年、武后の宮中での専断に怒った高宗が廃后を画策して失敗して以来、高宗が政務を執る時は武后が背後の簾の内からそのすべてに関与するようになった。いわゆる垂簾【すいれん】政治である。

荳ュ螳誉convert_20181106170622 
中宗

 683年、生来、癲癇【てんかん】に苦しんでいた高宗が56歳で没すると、武后が産んだ中宗が即位した。しかし、彼は武太后の怒りに触れて僅か54日の後に廃されてしまう。

逹ソ螳誉convert_20181105145525 
睿宗

 武太后は中宗の弟を睿宗【えいそう】として即位させたが、政治には関与させず、簾中から政治を執り行った。690年、関中の人民900余名の嘆願によるかたちで国号を周と改めて自ら聖神皇帝を称し、睿宗を後嗣とした。いわゆる「武周革命」であり、中国史上唯一の女帝の出現であった。女帝を嫌う中国では、皇帝になっても則天武后と読んできたが、最近は武則天と呼ばれることが多い。

※人物の肖像は主に中国テレビドラマ『武則天』から拝借しました。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/11/30 08:06 】

古代中国史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドー女禍はまだ続く・韋后 | ホーム | 世界史のミラクルワールドー江の南で楊が散れば・隋の滅亡 >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |