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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー不東・玄奘

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玄奘

 602年に河南省で生まれた玄奘【げんじょう】は、5歳の時に母、10歳の時に父を亡くした。11歳の時、すでに出家していた兄を頼り洛陽の浄土寺に身を寄せ、13歳で出家。各地の寺に師を求めて仏教教義を研究したが疑問が多く、ついに、直接インドに赴くことを決意し、隋に替わって新しく成立した唐に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から何度申請しても出国の許可が下りなかった。

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 629年8月、玄奘は国禁を犯して密かに出国、単身インドに向けて出発した。玄奘28歳。役人の監視を逃れながら河西回廊を西に進み、玉門関の手前、瓜州【かしゅう】を発ち草原に入った時、年老いた胡人に西域行きを止められた。玄奘は言った、「貧道爲求大法 發趣西方 若不至婆羅門國 終不東歸 縱死中途 非所悔也」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)と。

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 玉門関を過ぎると、広大なゴビ砂漠が広がる。食糧も水も底をつき、魑魅魍魎【ちみもうりょう】に襲われるが、奇跡的にゴビ砂漠を抜けた。

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 高昌故城

 その年の暮れに、高昌【こうしょう】国(トルファン)に至った。熱心な仏教徒であった国王の麹文泰【きくぶんたい】は、玄奘の講義を受け、その学識の高さに感銘。「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」と懇願したが、玄奘が断ると、一室に閉じ込めてしまった。何としても旅立つ玄奘の決意は変わらず、断食で抵抗すると、王は根負けして、インドからの帰りには3年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許してくれた。
 
 王は20年間の旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ってくれたが、この約束はついに果たされることはなかった。やがて玄奘がインドでの学びを終え帰路につく1年前に、高昌国は唐に滅ぼされ、王も死んでしまっていたのである。
 

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天山山脈

 
 鳩摩羅什【くまらじゅう】の故国・亀茲【きじ】国(クチャ)に2カ月滞在した後、玄奘は西域の商人らに混じって天山山脈に挑んだ。天山は夏でも雪がとけない極寒の氷山。強風が吹けば、砂や石が飛んでくる。眠ろうにも渇いたところはない。遭難覚悟の7日間の旅であった。

鉄門

 命からがら天山山脈を越えた玄奘は、イシク・クル湖に出た。さらにシルクロードを西へ進み、石国(タシケント)・康国(サマルカンド)を通り、鉄門にさしかかる。鉄門はサマルカンドとトハリスタンとの間にある狭く険しい道のこと。インドに至る要害で、両側の崖が鉄色を帯び、鉄の門を設けてあった。

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平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「バーミアン石窟」  

 鉄門を抜けて現在のアフガニスタンに入った玄奘はバーミヤンを訪れている。玄奘は『大唐西域記』に、「二体の大仏は金色に輝き、王城や伽藍が甍を連ねており、300メートルもの巨大な涅槃像があった」と記している。僕も一度は見たいと思っていた大仏だが、2001年にターリバーンにより爆破されてしまった。クソッ

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平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「ナーランダの月」

 玄奘はさらにガンダーラを通って、インダス河を渡り、カシミールに入った。鳩摩羅什も若い頃に仏教を学んだ地だ。その後、祇園精舎やカピラ城、ルンビニー園などのブッダゆかりの地を巡礼した後、目的地であるナーランダ僧院に辿り着いた。玄奘31歳の時である。

 ナーランダ僧院では5年間にわたり、シーラバドラ(戒賢)に師事して唯識【ゆいしき】の教学をきわめ、ハルシャ=ヴァルダナ王にも会見。さらにインド各地に求法と仏蹟巡礼の旅を続けた。645年、膨大な経典をたずさえて再び陸路で帰国したが、長安を出て17年の歳月が流れていた。

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 写真は世界史の資料集にもよく掲載されている玄奘の像だけど、恥ずかしながら長い間中国で描かれたものだと思い込んでいた。ところがこれ鎌倉時代の日本で描かれたもので、東京国立博物館が所蔵している。経典をぎっしり積み込んだ笈【おい】を背負って、脚絆【きゃはん】を着け、草履を履いた旅姿で描かれている。よく見て欲しいんだけど、首に髑髏【どくろ】を繫【つな】いだ首飾りを下げ、腰には刀を差し、右手には払子【ほっす】、左手には経巻を持ってるよね。それじゃ、上部の円形の大きな笠から吊り下げられている物は何だ?分かるかな?これ、香炉なんだ。背中に背負ってる経典が虫に喰われないように香を焚きながら帰ったんだってさ。

 でも、この絵は間違い。玄奘が持ち帰った経典は背中に背負って運べるような分量じゃなくて、馬20頭が必要だったんだって。

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 そのころ太宗は国勢発展を意図して641年からヴァルダナ朝に外交使節を送っていた。643年にはインドに派遣していた王玄策らがブッダ説法の遺跡などを巡礼し仏典を得て帰朝し、インドブームがわき起こった。その直後に思いも掛けない玄奘からの手紙が届いたる。「私は国禁を犯して出国しましたが、おびただしい書籍や珍宝をもって、ただいま于闐【うてん】(ホータン)まで帰ってまいりました。」これを読んだ太宗はたいそう(駄洒落)喜んで、早速迎えの者を遣わした。


 太宗はその労をねぎらって玄奘三蔵の号を贈るとともに、勅命によって経典の翻訳にあたらせた。玄奘がモデルになった『西遊記』があるから、三蔵法師というと玄奘のことだと思ってるかも知れないけど、三蔵法師は固有名詞じゃない。経・律・論の三蔵に通達している学僧に対する尊称だから、三蔵法師は何人もいて、鳩摩羅什も三蔵法師だよ。

 玄奘は持ち帰った経巻の訳業を太宗に願い出たが、許可に当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂したのが『大唐西域記』であり、帰国の翌年に成立している。玄奘が歴訪した110カ国および伝聞した28カ国の事情が述べられており、貴重な史料となっている。

 また、玄奘は亡くなるまでの約18年間に、『大般若経』600巻を含めて75部1335巻の漢訳を完成させた。羅什の訳が35部294巻だから、いかに大規模な翻訳事業か分かると思う。玄奘の訳風は逐語訳で「新訳」と称され、羅什のものを「旧訳」【くやく】と読んで区別する。

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 翻訳事業はまず弘福寺、ついで大慈恩寺で行われたが、大慈恩寺は648年に皇太子の李治(後の高宗)が亡き母の追善供養のために建てた寺で、玄奘が上座として迎えられた。652年、玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために境内に大雁塔【だいがんとう】が建てられた。長安のシンボルとも言えるこの塔は当初5層であったが、武則天の時代に改修されて、現在は7層64メートルある。木製の階段が螺旋状に頂上まで続いていて登ることが出来る。階段は般若心経の文字数と同じ265段。平成12年に上まで登ったが、二日酔いで傾斜のきつい階段を登るのはえらく大変だったのを今でも覚えている。

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 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を2枚紹介したけど、この壁画どこにあるか知ってる?写真は薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の玄奘塔。その北側にある大唐西域壁画殿に描かれた全長約37メートルという大壁画で、壁面13面に7場面が描かれている。構想30余年、実制作20年という期間を経て、平成12年12月に完成させた超大作だ。玄奘塔は玄奘三蔵の頂骨を真身舎利【しんじんしゃり】として安置したお堂で、正面の扁額には「不東」の文字が刻まれている。

 じゃ、なんで玄奘三蔵が薬師寺に祀られているか分かる?薬師寺の宗派は法相宗【ほっそうしゅう】だけど、法相宗は唯識宗【ゆいしきしゅう】とも言って、玄奘がインドから唯識説を中国に伝え、その弟子の慈恩大師基が開いた宗派なんだ。だから、薬師寺にとって玄奘は事実上の宗祖なんだよね。

 じゃあ、なんで薬師寺に玄奘の頭蓋骨があるのか?

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さいたま市慈恩寺の玄奘塔

 玄奘の遺骨は長安・興教寺の舎利塔に納められてたんだけど、宋の時代に長安から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になっちゃった。ところが、日中戦争最中の1942(昭和17)年南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に玄奘の頭骨を納めた石棺を発見した。頭骨は当時の南京政府との間で応酬を経た後、分骨することで決着を見、日本では現在、さいたま市の慈恩寺に奉安されている。その一部が1981(昭和56)年に薬師寺に分骨され、玄奘塔に安置されたってわけだ。薬師寺に行くことがあったら、是非玄奘三蔵院にもお参りしてね。

 ちなみに、遺骨発見当時の南京政府の主席は汪兆銘【おうちょうめい】。日本の傀儡政権が分骨を認めたんであって、俺たちゃ決して認めないぞ、ということで、現在の中国は玄奘の遺骨を返せと言っている。どうする?

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/12/10 09:11 】

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