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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー亡国の天子・徽宗

 完顔阿骨打 
完顔阿骨打

 完顔阿骨打【わんやんあくだ】は女真族の完顔部の族長である。女真(ジュルチンの漢訳)はツングース系民族で、松花江中流域で半農半狩猟生活を送っていた。1019年に女真は50余隻で対馬・壱岐に襲来し、島民を殺害、連行するという事件を起こしたが、日本ではこれを刀伊の入寇と言った。高麗で蛮族を意味する刀伊が女真であることは、当時の日本人は誰も知らなかった。

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 女真を統一した阿骨打は遼からの独立をめざし、1115年に遼軍を破り、国号を金として皇帝となった。遼に苦しめられてきた宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年に金と海上の盟といわれる同盟を結んだ。地図を見てお分かりの通り、海上ルートを使わないと宋と金は秘密交渉が出来なかったから、海上の盟という。遼が滅びた暁には、長城以北の占領は金にまかせるが、長城以南つまり燕雲十六州は宋がもらう。そして、今まで遼に贈っていた歳弊の絹30万匹・銀20万両は今後は金に贈るという内容だ。

 交渉が纏まらないうちに金は軍事行動を開始し、破竹の勢いで遼軍を破り、遼の西京つまり大同を陥れた。宋による燕京への攻撃が同時に開始されるはずだったが、宋軍は方臘【ほうろう】の乱など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れた上に、弱体化した宋軍は連戦連敗。結局、金に援軍を要請するはめになった。金軍はこの要請に応え、たちまち燕京を陥落させてしまい、宋軍は何の役にも立たなかった。で、結局宋が手に入れたのは、金に略奪されて空城になった燕州など6州のみで、その上燕京攻撃の代償として金に対して銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を支払うことになった。それでも都では国初以来の宿願の一部が達成されたというわけで、お祭り騒祝宴が開かれた。

 なお、金は1125年に今度は西夏と同盟して遼を滅ぼしている。

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徽宗

 この時の宋の皇帝が徽宗【きそう】である。徽宗と言えば、風流天子として知られ、書・画に優れ、院体画の第一人者として史上に不朽の名作を残している。

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 世界史の教科書にも掲載されている「桃鳩図」は徽宗の代表作だ。これ中国にあると思ってる人が多いと思うけど、実は日本の国宝なんだぜ。かの足利義満や井上馨も所蔵していたことがあり、現在は個人の所蔵となっている。贋作だという話もあるけどね。

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花石綱

 絵画についてはプロ級の腕前の徽宗だが、政治には熱意がなく、明代の小説『水滸伝』における悪役として有名な蔡京【さいけい】を宰相に任じ、自らは書画・骨董に凝り、美女を漁り、道教を信じて豪奢な生活で国費を乱費した。(『水滸伝』については明史で書く予定)また、紙幣の乱発・重税の加徴・専売の強化・花石綱【かせきこう】(庭園を造るために江南から調達させた珍花・名木・奇石などのこと)などで国民に負担を強いたため、農民反乱である方臘の乱も起きた。

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欽宗

 燕雲16奪還に失敗した宋は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。伝統の「「夷を以て夷を制する」策略である。しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗(呉乞買・ウキツバイ)が首都・開封【かいほう】を攻撃してきた。徽宗は「己を罰する詔」を出して長男の欽宗に譲位し、鎮江まで逃げ出す始末だ。しかし、後に開封に連れ戻されて幽閉されてしまう。

 
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 欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなど屈辱的な内容の講和を結んだ。しかし、これに反発する主戦派により講和が守られなかったため、金軍は総攻撃を命じた。40日間余りの攻防戦の結果、1126年11月に開封が陥落。徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、3000余人が捕らえられて北方に連行(二帝北行)され、1127年北宋は滅びた。これが「靖康の変」である。徽宗・欽宗は五国城(黒竜江省)に幽閉されたまま帰国の願いもかなわず没し、徽宗の遺体は南宋と金の和平成立で返されたが、欽宗の遺体が返されることはなかった。また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設の妓楼である「洗衣院」に入れられて娼婦となった。

 こうして、宋はいったん滅亡したが、この変の際に都にいなかった欽宗の弟の康王が江南に逃れて即位し(高宗)、都を臨安(現在の杭州)に定めた。これを南宋という。南宋は豊かな江南の経済力と地の利、その後の金の軍事力の弱体化に助けられて、その後1世紀半ほど生き延びることができた。

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 NHKドキュメンタリー「中国王朝 よみがえる伝説」で紹介されたように、徽宗は美におぼれて政治をおろそかにした「亡国の天子」として蔑まれてきたが、最近その実像に新しい光が当たりつつある。徽宗は、福祉の充実に力を注ぎ、身分の低い高齢者のための養護施設「仁先院」、貧困者の医療施設「安済坊」、身分の低い人たちの共同墓地「漏沢園」を各地に造るなど、国民思いの皇帝でもあったのだ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/12/20 08:15 】

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