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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー最後の英雄・岳飛

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秦檜

 北宋を滅ぼした金だが、華北を自力で支配し続ける力も自信もない。そこで、華北に漢人である張邦昌の楚や劉豫【りゅうよ】の斉などの傀儡政権をおいて、ここを統治し、1134年には金・斉連合軍による南伐が行われた。北方の軍事的圧力が高まる中で、南宋では和平派と主戦派が対立するようになった。

 和平派の代表政治家が秦檜【しんかい】だ。秦檜は靖康の変の時に、徽宗・欽宗らとともに北方に連行されたが、和平派の金の将軍ダランとの間の黙契によって3年後に南宋に帰国した。ただ一人金の内情を知る者として高宗の信頼を受けて宰相となり、対金和平論を唱えた。

 彼は金のもとで暮らした経験があるから、新興国家金の勢い、質実さ、強さを充分見ている。秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還するなんていうのは、話としては景気がいいが全く不可能。そんなことをしては南宋まで滅びることになる。南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築くのが現実的な選択だという訳だ。

 秦檜のいうことは、それなりに説得力はあるが、一つ大きな問題があった。それは金の捕虜になっていた秦檜がなぜ南宋に帰ってくることを許されたのか、という疑惑がもたれていたんだ。要するに秦檜は対南宋和平工作のために金から送り込まれたエージェントではないか、ということだ。さらに、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、いかにも弱腰でなさけない。

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岳飛

 これに対して、あくまでも戦って領土を奪還しようという主戦派の主張は勇ましいから人気があった。この主戦派の代表者が岳飛【がくひ】だ。岳飛は河南省の農民の子に生まれた。幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。

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岳王廟の壁画より

 岳飛は若い頃に母の手で背中に入れ墨を彫ってもらった。「尽忠報国」の4文字である。この言葉を胸に宋を救うべく、21歳の時、開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、北宋滅亡後の1134年には節度使に任命された。岳飛は軍事上の才能では、当時の諸将中匹敵する者が無かったが、朝廷からすれば、最も有能な将軍ほど、また最も危険な存在でもあった。
 
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 諸葛亮のところで紹介した成都にある武侯祠の「出師の表」だけど、これは岳飛の書だ。他の将軍はみな文盲であったが、岳飛は文学の才もあり学者を優遇した。朝廷の最も恐れたのは、このような文武の官僚を併せ指揮する能力を持つ人物である。秦檜は和平交渉を進めるため、岳飛ら主戦派の将軍に対し、それぞれの家軍を解体して中央軍に再編することを伝えた。他の将軍がそれに応じるなか、岳飛は頑強に拒否した。

 主戦派の筆頭で民衆に絶大な人気を誇った岳飛は高宗・秦檜にとって危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛とその子・岳雲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。

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 こうした犠牲を払うことにより、1142年、南宋と金の間で紹興【しょうこう】の和議が成立した。その条件は、淮河を境とし、南宋は金に臣礼をとり、毎年、銀25万両・絹25万疋を支払うということであった。国内の主戦派が排除された南宋はこの条件を受けいれ、和平が成立、華北を放棄したことを代償に、平和を実現させた。

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 浙江省杭州市(南宋の都・臨安)にある岳王廟。岳飛の死から約80年後の1221年、智化寺という寺院に「岳廟」として建てられた。1918年に「岳王廟」として大々的に再建されて、文化大革命中に完全に破壊されたが、正殿などが1979年に再建された。

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 平成23年に天台山に参詣した折に、岳王廟を訪れ、岳飛の墓に手を合わせた。右手は岳雲の墓。

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 岳王廟の岳飛像。秦檜により謀殺されたが、のち無実が明らかとなって鄂王【がくおう】を追封され、忠臣として崇められ、関羽とならぶ民族的英雄とされた。坐像の上部には「還我河山」(われに国土をかえせ)の巨額がある。

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 岳王廟には、後ろ手に縛られ、鎖に繋がれて跪かされている秦檜夫婦の石像がある。岳飛を逮捕したものの、さすがの秦檜も釈放するか処刑するか決めかねていた時、妻の王夫人が「さっさと殺せ」と煽動し、秦檜はやっと決心がついたそうだ。そんなの訳で夫婦揃って土下座している。秦檜は高宗の信任を盾にして反対派を弾圧しては一族の繁栄を図ったため悪評をかい、死後、姦臣・売国奴との烙印を押された。そのため、岳王廟に参詣に来た人々はこの石像を足蹴にし、痰や唾を吐きかける習慣があったそうだ。

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 しかし、近年は痰や唾を吐くことは禁止されている、と世界史の資料集に書かれている。岳王廟を訪れた最大の目的は、これが事実かどうかを確認することだった。確かに石像の後ろの石垣には「痰を吐くな」と書いてあるし、石像には冊がされている。訪問した日は日曜日だったので大変な数の参詣者がいたが、石像の前でどんな行動をするか、30分ほど観察していた。すると、その中の何人かが大声で秦檜像に向かい凄い剣幕で怒鳴りつけて、痰・唾こそ吐かなかったが、頭を思いっきり引っぱたたいていた。岳飛が殺されてから800年も経ってるのに、中国人というのは恨みを決して忘れないんだね。

 秦檜に対する評価は近年大きく変わって来ている。現在は、当時の情勢からすれば秦檜の判断はむしろ正しく、対金講和によって南宋150年の基礎を築いた有能な政治家として評価されている。しかし、無実の人間に謀反の汚名を着せて殺していいはずがない。

※岳飛と秦檜の肖像は中国テレビドラマ『岳飛伝 THE LAST HERO』から拝借しました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/12/23 05:18 】

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