FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー蒼き狼・チンギス=ハン

Burkhan_Khaldun_mount2_convert_20181129110425.jpg 
ブルカン山

 モンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』の書き出しは次のように始まる。「上天より命【みこと】ありて生まれたる蒼【あお】き狼(ボルテ・チノ)あり、その妻なる惨【なま】白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン岳に営盤【いえい】して生まれたるバタチカンありき。」

 ここから、「蒼き狼」はモンゴル部族やチンギス=ハーンを指すようになった。

 904b25f9bc8609fd739b40b415fb97a9_convert_20181129110323.jpg
チンギス=ハーン

 チンギス=ハーン、謎の男である。残された彼の肖像画はこの1枚だけ。わずか800年前の人物なのにである。それも後の想像図なので、中国化して描かれているのは間違いない。ある史書には、髪の毛の薄い大男だったと述べられている。

 
Map_of_13c_Mongolia_convert_20181129110453.png 

 チンギス=ハーン、本名はテムジン(鉄木真)。テムジンはモンゴル語で「鉄の男」という意味なので、日本風に言えば鉄男君だ。テムジンはモンゴル部のボルジギン氏族の長・イェスゲイと妻ホエルンの長男として生まれた。
 
maxresdefault_convert_20181129110522.jpg

9歳の時に、母方の一族であるコンギラト部のボルテと婚約した。遊牧民族の間では婚約が成立すると、男の子を女の子の父親が育てるという習慣があったので、イェスゲイはテムジンをボルテの父に預けて帰路についた。しかし、その途中タタール部の宴会に遭遇し、毒入りの馬乳酒を勧められて殺されてしまった。テムジンは急遽家に戻ったが、タイチウト氏族をはじめとする被支配氏族が離反し、テムジン一家は部族から追放されてしまう。

img_cfdd71856afd8a62addb367a3ceeae9c281913_convert_20181129133518.jpg 

 モンゴル高原の過酷な自然環境の中で部族を離れ、家族単位で生活することは至難の業である。6人の弟達と母親を率いる家長となったテムジンでは苦難の道を歩んだ。牧草地を追われての生活は食べ物にも事欠く日々の連続だった。ある時、獲物の分配をめぐり兄弟喧嘩となり、テムジンは2人の弟を殺している。この苦難がこの男をどこまでも辛抱強く、負けず嫌いに、勇敢に、戦闘的に仕立てていった。

 成人したテムジンはボルテと結婚したが、結婚早々にメルキト部の襲撃を受け、ボルテが略奪されてしまう。実は、テムジンの母ボルテはメルキトの男と結婚していたのを、イェスゲィが略奪して来て自分の嫁さんにしたんで、その仕返しだった。テムジンの盟友(アンダ)であったジャムカなどの協力でボルテを取り返したのだが、その直後に長男が生まれた。当然、メルキトの子ではないのかと疑われた。長男の名前はジュチ。ジュチはモンゴル語で「お客さん」の意味。大事な長男にそんな変な名前つけないよね。きっとテムジンも自分の子では無いと思ってたんだろうね。でも、テムジンはジュチをあくまで長男として扱ったんだよ。

6014404_c91276c6_640_convert_20181129110356.jpg 
オノン川

 その後、テムジンはジャムカやケレイト部のオン=カンの援助を受けて状況を好転させた。ジャムカとは決別したが、テムジンは、まもなくモンゴル部族長となり、タイチウト氏・タタール部・ケレイト部・西方のナイマン部・北方のメルキト部を撃破。宿敵ジャムカを処刑し、オングート部を服属させ、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。1206年、オノン河畔でクリルタイ(部族長会議)を開き、9本の白いトゥク(日本の馬印)を打ち立て、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開き、チンギス=ハーンを称した。テムジン46歳であった。「チンギス」はシャーマニズムの最高神「光の神」の意味とされる。

738_convert_20181129110248.jpg

 チンギス=ハーンは1211年から国家の存亡をかけた対金戦争を開始。5年間にわたり本拠地に帰ることなく、一枚岩となってひたすら金を攻撃し続け、その首都・燕京を陥落させ、燕雲十六州を支配下に置いた。その後、チンギス=ハーンは西方攻撃に転じ、西遼(カラ=キタイ)を滅ぼしたナイマン部のクチュルクを討ち、西遼に服属していた西ウイグル王国もモンゴルの支配下に入り、ウイグル人はモンゴル帝国を支える官僚層となった。

 1218年、モンゴルの通商使節が虐殺されたオトラル事件を機にホラズムに遠征して、サマルカンド・ブハラを破壊、ホラズム=シャー朝を征服。ホラズム=シャー朝の君主アラーウッディーン=ムハンマドは西方に逃れたため、チンギス=ハーンはジェベとスベエデイにこれを追撃させた。アラーウッディーンはカスピ海の島で窮死するが、ジェベ・スベエデイはカフカスを越えて南ロシアにまで侵入した。

辟。鬘契convert_20181129110721

 チンギス=ハーンの本隊はアラーウッディーンの子ジャラールッディーンを追って南下し、インドに侵入したが、苦戦を強いられて帰還した。その後、ホラズム遠征に対する援軍を拒否した西夏に侵攻し、1227年にこれを滅ぼし、モンゴルへの帰途に就いた。しかし、西夏攻撃中の落馬による怪我がもとで、1227年8月18日、チンギス=ハーンは黄河上流の六盤山【ろくばんざん】の麓で没した。66歳であった。

 彼の遺体は故郷のブルカン山に運ばれて葬られたが、その上を騎兵隊が往復して土を踏み固め、墓石も目印も立てずに立ち去った。これが当時の遊牧民の習わしであった。そのため、チンギス=ハーンの墓のありかは現在にいたるまで現在謎のままである。

yoshitsune_catch-e1524791511706-1024x685_convert_20181201103523.jpg

 これ、誰か分かる?そう、源義経だね。義経は、兄の頼朝に追い詰められ、さらに奥州藤原氏の裏切りにあって、文治5(1189)年に平泉・衣川方面で死んだ、というのが通説だ。ところが、これには異説がある。義経は死んでおらず、北海道から樺太を経て大陸に渡ってチンギス=ハーンになったと言うんだ。

 平泉を脱出した義経が十数年かけてモンゴルで力を得たとすれば、年代的なつじつまは合う。さっき書いたように、チンギス=ハーンの即位式には九棹の白旗が立てられた。これは、義経が清和源氏(源氏の旗は白)であることと、「九郎」であることを示したと考えられると言う。また。チンギス=ハーンの称号は、「源義経」を音読みにしたゲン・ギ・ケイがモンゴル風に言い換えられたものだと。これには、ちょっと無理があるように思うけどね。

01_001_l_convert_20181201105121.jpg

 これを最初に説いたのは、シーボルトの大著『日本』だ。その他、小谷部全一郎などいろんな人が義経=チンギス=ハーン説を唱えているけど、どれもこれもこじつけ理論ばっかりだ。これは明治以降、日本が大陸に進出しようとするうちに、これを正当化しようとする人たちが、この義経伝説を利用し、義経のように大陸に渡って活躍する夢を国民に植え付けようとしたしたんだと思う。特に満州事変で日本が満州を侵略しようとした時には、盛んに流布されるようになった。権力者が意図的に広めた伝説だったわけだ。

e9dc291b974b1d0d07a715f9e3c8c228_convert_20181201111051.jpg

 北海道名物ジンギスカン鍋。名前の由来については諸説あるけど、残念ながらチンギス=ハーンともモンゴルとも何の関係もない。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2018/12/29 09:30 】

中国中世史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドーマルコ=ポーロはスパイ? | ホーム | 世界史のミラクルワールドー世紀の受験地獄・科挙 >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |