なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ご存じマルコ=ポーロ。『東方見聞録』の著者として知らない人はいない。
彼は1254年にヴェネツィアで生まれたが、その前年から話を始めなければならない。父ニコロとその弟マフェオは貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いた。ここに6年もいたが、政変が起こると予測した彼らは、財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、クリミアへと向かった。ここでキプチャク=ハン国のベルケ=ハンに会って宝石を贈り、2倍の値打ちの商品を受け取った。1年ほど滞在し帰ろうとしたが、戦争により交通路が危険になったことなどで東へと向かい、なんと元の都・大都まで行ってしまった。
フビライはポーロ兄弟が話すヨーロッパの様子に大いに興味を持った。そこで、ローマ教皇宛ての親書を二人に渡し、学芸に通じるキリスト教の学者100名と、イェルサレムのキリストの聖墓に灯されているランプの聖油を持参して戻るように命じた。
こうして二人はフビライの正式の使者となり、金の牌子【パイザ】を与えられた。牌子はモンゴルの交通網である駅伝制で使用された通行証のことである。二人はアジア大陸を西に向かいパレスチナまで来たが、ローマ教皇が亡くなり、新しい教皇はまだ決まっていないことを知った。これではフビライの親書を手渡せない。そこで、二人は新教皇が決まるまで待機するために、いったんヴェネツィアに帰ることにした。なんと15年ぶりの帰郷であった。ニコロを待っていたのは、自分の出発後に生まれ、今は15歳になったマルコだけであった。妻は帰らぬ夫を待ちわびて、すでに世を去っていた。
2年が過ぎても新しい教皇が決まらない。もう待てないと判断したニコロは、1271年、17歳になったマルコを連れてイェルサレムに向かい、聖墓のランプの聖油を少しもらい受けた。ここで、運良く新教皇が決まった。教皇にフビライの親書を渡し、フビライ宛ての親書ももらった。100人の学者を希望されたが、どだい無理なので、たった2人のドミニコ会修道士が同行することになった。でも、この二人は途中で怖じ気づいて逃げ帰ってしまう。
フビライに謁見するマルコたち
パミール高原を越え、タクラマカン砂漠南側の天山南路を通って、フビライの夏の都・上都に着いたのは1274年の夏だった。フビライは彼らが約束通り戻って来たことを喜び、聖油と教皇の親書を持参したことでひとまず満足した。マルコを一目見て気に入ったフビライは、マルコに側近として仕えるように命じた。世界史で習ったと思うけど、マルコ=ポーロも色目人【しきもくじん】の一人になったわけだ。結局、マルコは17年間も中国に滞在することになってしまう。この間、マルコは中国各地に派遣されて報告書を提出、フビライの好奇心を満足させた。
やがて望郷の念から帰国を望み、なかなか許されなかったが、元の皇女コカチン姫がイル=ハン国に嫁ぐ際、3人も随行団の一員として帰国が認められた。(ハイドゥの乱で陸路はとれなかった)1292年、一行は泉州(ザイトン)を出航し、マラッカ海峡を通ってイル=ハン国に至り使命を果たした後、1295年にヴェネティアに帰った。結局、マルコの旅は24年間、全行程15,000kmにも及んだ。帰国してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられて捕虜となり、1299年に釈放されている。釈放後の生活については不明なところが多いが、1324年、妻と3人の娘を遺して病死したとされる。
『東方見聞録』
これで終わったら、マルコの名前が世界に知られることはなかった。ジェノヴァの獄中で、マルコは暇つぶしに東方で見聞きしたことを語った。これが評判になり、同囚であったピサの物語作家ルスティアーノが一冊の本にまとめたのが、『世界の記述(東方見聞録)』である。その内容があまりにももの珍しいため、初めは信じられず、マルコには「イル・ミリオーネ(百万男)」というあだ名がつけられた。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたというが、まあ「大風呂敷」といった意味合いだろう。
ご存じの通り、この書の中でマルコは日本を「黄金の国ジパング」として紹介した。ジパングは中国南部の発音で「日本国」を「ji-pen-quo」と呼んでいたものが訛ったもので、もちろんJapanのもとになった。
「ジパングは東海にあるお大きな島で、大陸から1,500マイルの距離にある。…この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。…この国王の宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ている。屋根は全部純金で葺いてあり、宮殿内の数ある各部屋の床も、全部が指2本幅の厚さをもつ純金で敷き詰められている。」
なんと大袈裟な、嘘ばっかり、と思われるかも知れないが、これはマルコが直接見たわけではなく、モンゴル人から聞いた話として書いたもので、マルコがそれを本当に信じていたかどうかは怪しい。黄金の宮殿というと、奥州平泉の中尊寺金色堂が思い浮かぶけど(金閣寺はまだ建立されていない)、これが中国に伝わり、日本は黄金の国であるという伝説が生まれていたのかも知れないね。
アントワープで刊行された活版印刷版『東方見聞録』(1485年刊)
実際に自分で見聞していないものに関しては問題もあるが、その後多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、『東方見聞録』の記事の正確さが知られるに至った。これはコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、この書を座右から離したことがなかった。
ここで、一つ大きな問題がある。中国の史書『元史』や『新元史』には、マルコ=ポーロの名前がどこにも出て来ないのである。フビライのもとで重要な役を果たしていた人物がなぜ中国の史書に登場しないのか。マルコのほうも、いつ、どんな要件でどこへ行き、どんな重要情報をフビライに提供したのか、という点になると、牢獄では何も語らなかった。史書にも記載されず、自分も口外出来ない仕事と言えば、そう、スパイしか考えられない。マルコ=ポーロは江戸時代の公儀隠密のような仕事をしてたの、かもね。
また、マルコ=ポーロは中国に行っていないとおっしゃる学者もいる。史料に名前が出て来ない他に、17年も中国にいたのに、当時の中国の普通の習慣である茶・纏足【てんそく】のこと、また万里の長城などについても触れていないことが理由だ。そうすると、『東方見聞録』は複数の旅行者の情報をマルコ=ポーロという名に託して作り上げたということになるが、やっぱりマルコ=ポーロが実在したとするほうがロマンがあっていいよね。
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