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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー乞食坊主から皇帝に・朱元璋

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朱元璋

 朱元璋【しゅげんしょう】は天暦元年(1328)、安徽省の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。従兄弟も含めて8番目の子であったため、重八と名づけられた。元末の飢饉の中で重八以外の家族は餓死し、17歳の時に食うために出家して皇覚寺に入ったが、寺も食料が乏しく、乞食僧となって放浪しなければならなかった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。

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 1351年、朱元璋が24歳の時に紅巾の乱が起きた。紅巾の乱は河南省などの農民が白蓮教のリーダー韓山童【かんざんどう】を押し立てて反乱を起こしたことに始まる。反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の賊」といわれた。首謀者の韓山童はまもなく捕らえられ殺されたが、その子韓林児【かんりんじ】が引き継ぎ、反乱はかえって全国に拡がって大勢力となり、各地に呼応する反乱が各地に起こった。

  白蓮教は12世紀の南宋に始まる仏教系の秘密結社だが、イランの宗教であるマニ教の影響も受けているようだ。半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたことから、当初から国家や既成教団からも異端視されていた。呪術を取り入れて布教し民衆に広がり、社会不安と結びつくのを恐れた権力側から厳しく取り締まられた。もともとは浄土系結社であったが、元末には貧民を弥勒【みろく】菩薩が救済してくれるという、弥勒下生【げしょう】を願う反体制集団へと変貌を遂げた。

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  写真が弥勒菩薩だ。弥勒菩薩というと京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像の厳かな姿を思い浮かべる方が多いと思うが、中国では元代以降になると布袋【ほてい】さんの姿で表すようになった。布袋さんは弥勒菩薩の化身なんだそうだ。ちなみに、布袋さんが担いでいる袋があの堪忍袋なんだよ。知ってた?

 弥勒菩薩はお釈迦さまが救えなかった人々を救うために未来に出現する仏さんで、今は兜率天【とそつてん】で修行されており、娑婆世界に生まれて竜華樹下で悟りを開くとされている。それがいつのことかというと、なんと56億7000万年後なんだ。そんなに待ってられないというので、今すぐに娑婆に生まれて我々を救ってください、というのが弥勒下生信仰だ。救世主待望論的な要素が強いため、反体制集団に発展しやすく、明末にも大反乱を起こしている。

郭子興 
郭子興

 話を紅巾の乱に戻そう。反乱軍に身を投じた朱元璋は郭子興【かくしこう】という武将の部下となり頭角をあらわしていった。郭子興は朱元璋の面構えを大いに気に入り、その養女の馬氏を朱元璋に嫁がせた。これが後の馬皇后である。馬氏の実父は殺人罪を犯して行方不明になった男である。

 やがて郭子興が死に、軍を引き継いだ2人の息子も元との戦いで戦死(朱元璋による陰謀との説もある)してしまう。この2人の軍も吸収して軍勢を拡大した朱元璋は、ついに1356年に旧都・建康を占領、応天府と改称した(後の南京)。 1364年には呉王を称して紅巾軍と袂を分かち、地主や知識人階級と結んで農民反乱の鎮圧側にまわり、白蓮教の指導者韓林児をだまし、長江に沈めて殺害。1367年、元を討つための北伐を開始、1368に南京で即位して、国号を明とし、洪武帝(太祖)となった。
 
 こうして朱元璋は日々の食事にも事欠く貧農の家に生まれて、しかも幼時に孤児となり、どん底からはい上がって皇帝となった。農民出身の皇帝というと中国にはもう一人漢の高祖・劉邦がいる。日本だと豊臣秀吉だ。二人とも絶大な人気を誇るが、朱元璋は全く人気がない。どうしてだろうか?

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胡惟庸

 賎民同然の身分だった朱元璋は、自分の部下となった知識人たちに、激しいコンプレックスを抱いていた。これが大粛清に発展する。まず犠牲になったのが、功臣であり中書左丞相(宰相)であった胡惟庸【こようい】である。1380年、朝廷で専権を極め、洪武帝すらも凌駕する権力者と化した胡惟庸が、洪武帝暗殺を謀ったとして、謀反の罪で逮捕され、処刑された。これが、以後10年に及ぶ大粛清事件となった「胡惟庸の獄」の開始で、結局15,000人以上が犠牲となった。ちなみに、胡惟庸らが処刑された翌日に中書省が廃止され、六部が皇帝直轄になっているので、皇帝専政を強めるために捏造した一大疑獄事件であった可能性が大である。
 
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馬皇后

 馬皇后は女性としての本分を守り、決して政治に口出しせず、周囲に常に温容であったが、ある時、民の暮らし向きを夫に尋ねてたしなめられると、「陛下は天下の父、私は天下の母ゆえ、子の安否を問うのは当然です」と言い切った。自らの日常ではきわめて質素な生活に終始し、贅沢を敵視さえしたという。

 こんな話も残っている。馬皇后が病に倒れたとき、朱元璋の性格を嫌と言うほどに理解していた皇后は医者を寄せ付けず、治療を全く受けなかった。結果として皇后は死ぬわけだが、なぜ皇后が医者を寄せ付けなかったか?それは、医者の診断を受けて自分が死ねば、その医者は夫によって殺されると思ったからだ。馬皇后は今際の際【いまわのきわ】に述べた言葉は「天下の賢才を求めて臣下の諫言を容れて下さい。子孫が賢明で臣民が所を得るのが望みです」であった。享年51歳。

 朱元璋と馬皇后は非常に仲が良く、皇帝となった後の朱元璋に物申せる唯一の人間だったそうだ。しばしば臣下の処刑を食い止めた馬皇后が1382年に崩御すると、洪武帝の暴走を止められる者はいなくなった。皇帝専制に向けて、洪武帝はさらなる官僚・地主への弾圧を仕掛けていく。

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 1393年には、大将軍・涼国公の座にあった藍玉【らんぎょく】が謀反の罪で突然逮捕され、処刑された。これを機に大粛清となり、15,000人から30,000人が犠牲となった。(藍玉の獄)いずれの事件もほとんど取り調べが行われないまま、関係者が即時処断されている。
 
 また、洪武帝には消さなければならない過去があった。それは自分がかつて乞食坊主であったことだ。その過去を抹殺しようとして、僧侶を思わせる文字、「光」や「禿」を特に嫌い、それら文字を使うことを禁止した。うっかりそれらの字を使ってしまうと厳罰が与えられた(文字の獄)。例えば、「天に道あり」と書くと、「道」は「盗」と同音であるから、皇帝を「盗人」と謗っている。「光天の下、天は聖人を生じ、世の為に則を作す」と書くと、「光」とは「坊主」を指し、皇帝が僧侶だった経歴を謗っている。また「則」は「賊」と同音である。皇帝を「賊」だと謗っている、などと言って難癖をつけた。

 洪武帝は同じ農民出身である劉邦をかなり意識して政治を行っているが、劉邦が粛清した数は30,000人ほどだ。洪武帝が粛清した数は恐らく10万人は下らないだろう。スターリンには遠く及ばないけど、中国史上最大の大粛清だ。

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 これ誰か分かる?実はこれも洪武帝の肖像なんだ。最初にあげた肖像は、厳粛で端正な顔立ちで、いかにも儒教の理想とする帝王らしい威徳をそなえたものだけど、こっちのほうは、馬のようにあごが発達し、見るから醜悪な人相をしている。どっちが、本人に近いと思う?誰が考えても、この肖像が実像に近いだろうね。

 建国以来の功臣であっても容赦なく粛清した結果、頼れる者は自分の身内だけになってしまった。で、24人の息子(親王)を要地に配置して権力の浸透を図ったが、これが裏目に出てしまう。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/01/05 05:48 】

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