なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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洪武帝の子供たちのうち、最も有能で武勇に優れていると評価されていたのは、第4子の燕王朱棣【しゅてい】である。元の大都時代の雰囲気を残す当時の北平(北京)は、モンゴル人、女真人、西域の人々の雑居する国際都市であった。21歳で北平に赴いた彼は、そこで一流の武将たちに鍛えられながら、対モンゴルの軍事演習に日を過ごした。燕王は兄の晋王と協力して数回にわたりモンゴルと交戦して勝利を収め、父の洪武帝をして「朕に北顧の憂いなし」と言わしめた。
一方、皇太子の長男・朱標【しゅひょう】は学者肌の温厚な人物であったが、1392年、洪武帝の生前に38歳で亡くなった。その後継者に誰を立てるべきか、その選定には5カ月ほど時間がかかった。というのも、朱標の子供たちのうちで最年長の允炆【いんぶん】は若年で神経質な性格、それに対し燕王の武勇とリーダーシップは衆目の認めるところであったからである。洪武帝自身、燕王を後継者にと考えたこともあったが、臣下の反対を受けて、結局允炆が後継者とされた。1398年、皇帝の継嗣問題が起こることを恐れながら洪武帝は死去し、允炆は16歳で帝位に就いた。これが建文帝である。建文帝は性格的にも、政治や軍事の過酷な指導は無理と考えられていたが、長子継承の原則を守ろうとする黃子澄【こうしちょう】や斉泰【せいたい】など側近や方孝孺【ほうこうじゅ】などの儒学者がその政治を支えた。
建文帝の直面した最大の難題は、兵権を握って各地に分封されている叔父たちの処遇であった。特に北平の燕王が政権に野心のあることは早くから取り沙汰されており、もし放置しておくならば、南京の政権にとって脅威となることが予想された。しかし、直接当たることはで出来なかったので、同じような諸王たちに対し、さまざまな口実を設けて諸王の封地の取りつぶし(削藩)にかかった。南京の建文帝と北平の燕王との緊張は高まってくる。
1399年、燕王の謀反準備を理由として逮捕命令が出されると、燕王は「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」というスローガンのもとに挙兵した。自らを「靖難の師」と呼んだので、この戦いは「靖難の役」と言われた。燕王は直ちに北平を固め、軍隊を南下させたが、南京の建文帝政府も北伐の軍を起こし、両者の戦いは一進一退を重ねながら3年におよんだ。燕王が軍事的に優勢でありながら、苦戦したのは挙兵に「大義名分」が無く、皇帝に対する謀反人と見られていたからであった。1401年6月、燕王は南京を陥落させ、建文帝は宮殿に火を放って自殺したとされるが、その遺体は見つかっていない。
それまで燕王を簒奪者として非難していた廷臣の多くはきびすを返して燕王に即位を要請する有様だった。燕王はその要望に応えるというかたちで永楽帝として即位すると、前皇帝に仕えた廷臣にそのまま新帝にも仕えることを許し、多くの廷臣はそれに応じた。しかし、燕王から「君側の奸」と名指しされていた黃子澄と斉泰などは建文帝に殉じて自殺した。建文帝の宮廷に仕え、高名な儒学者であった方孝儒に対しては、永楽帝は強く帰順を勧め、即位の詔勅を書くよう要請した。方孝孺はようやく筆を執って数文字を書いたと思うとたちまち筆をなげうち「詔を書くことはできません」と大声を張り上げて泣き出してしまった。紙を拾い上げてみるとそこには「燕賊、位を簒【うば】う」と書いてあった。永楽帝は怒り心頭に発し、その一族、門人のすべて873人を彼の面前で処刑し、最後に方孝孺を南京城の聚宝門外に引き出して死刑を執行した。これは、簒奪者の上に残忍な暴君という汚名を上塗りする結果となった。
こうして即位した永楽帝は、建文帝の存在を歴史上から抹殺し、自らを第2代皇帝とした。建文帝が第2代皇帝として認められ、名誉が回復されるのは、清の乾隆帝の時代、1736年のことであった。
こうして即位した永楽帝は、建文帝の存在を歴史上から抹殺し、自らを第2代皇帝とした。建文帝が第2代皇帝として認められ、名誉が回復されるのは、清の乾隆帝の時代、1736年のことであった。
1403年、北平への遷都を決定したが、実際に遷ったのは1421年のことであり、この時これを改名して北京順天府とするとともに、1406から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。遷都後わずか4カ月後に、完成したばかりの新宮殿に落雷があり3つの建物が火災で焼失した。これは天の警告と受け取られ、南京へもどるか北京にとどまるかをめぐって官僚の間で激しい論争が行われた。
永楽帝は建文帝を倒さないと自分が殺されていたんで、仕方ないと言えば仕方ないんだけど、自分が簒奪者であることを過剰に意識していた。これには孟子の易姓革命の理論が影響している。「彼は皇位を横から奪ったが、それは天の命じるところであった。だから、彼は立派な政治をした」。簒奪者たちは後世の人にそのように評価されたいと考え、意識して立派な政治を行う。唐の李世民もそうだったよね。
永楽帝は建文帝を倒さないと自分が殺されていたんで、仕方ないと言えば仕方ないんだけど、自分が簒奪者であることを過剰に意識していた。これには孟子の易姓革命の理論が影響している。「彼は皇位を横から奪ったが、それは天の命じるところであった。だから、彼は立派な政治をした」。簒奪者たちは後世の人にそのように評価されたいと考え、意識して立派な政治を行う。唐の李世民もそうだったよね。
永楽帝はモンゴルやベトナムに遠征して領土を広げ、大帝国を作り上げた。彼は中国史上最高の軍人帝王と評価されている。漢人の皇帝としては中国史上でただ1人、自ら大軍を率いて5度もモンゴリアを親征し、第5回目の遠征の帰途、1424年に内モンゴルの幕営で65歳の生涯を閉じている。また、明の国威を誇示するために鄭和【ていわ】に南海遠征を行わせているけど、これは次回お話するね。
写真は永楽帝が1420年に建設した天壇【てんだん】。手前が圜丘壇【えんきゅうだん】で奥の建物が祈年殿【きねんでん】。圜丘壇は天円地方の宇宙観に則り円形で、欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である9や、その倍数で構成されている。ここは皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所で、毎年冬至に豊作を祈る儀式を行い、雨が少ない年は雨乞いを行った。
祈年殿内部
「年」の本来の意味は「みのり」のことで、穀物の収穫サイクルを1年と考えたことで、時を意味するようになった。だから、「収穫を祈る」ということで、祈年殿では皇帝が正月に五穀豊穣の祈りを捧げた。祈年殿は直径32m、高さ38m、25本の柱に支えられる祭壇で現存する中国最大の祭壇。内部の金の装飾がある4本の柱は、四季をあらわしており、その外側にある12本の赤い柱は、12か月=1年を表している。つまり、この空間は、天そのものを表しているわけだ。ここに入れるのは皇帝ただ一人。永楽帝は家臣たちが居並ぶ中、一人で入って天に祈りを捧げた。自分は簒奪者ではない、天によって認められた正統な天子であることを、知らしめるためのパフォーマンスだった。
永楽帝は文化的にも大編纂事業を行わせ、『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全』などを編纂させ、文淵閣に保存させた。『永楽大典』は中国最大級の類書(百科事典)で、22,877巻・目録60巻・11,095冊からなる。ただ、これは学問を重視したというよりも、儒学者が建文帝について議論するのを事前に封じる意図があったと言われている。
永楽帝は自らの簒奪を隠蔽するために恐怖政治を実施している。そのために、かつて建文帝の側近である宦官【かんがん】たちを内通させて宮廷内の事情を探り出した経緯から、東廠【とうしょう】という宦官による秘密警察組織を作った。さっき書いたように、南京が陥落した時そこには建文帝の遺体は無かったよね。脱出してどこかに逃れているのではないか? そんな不安に駆られた永楽帝は東廠を使って国民の動向を監視しするようになった。ただ、あまりにも宦官を重用したことが、あとからボディブローのように効いてくる。
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