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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーチンチンのない艦隊司令長官・鄭和

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鄭和

 馬三保、すなわち後の鄭和【ていわ】は、1371年に雲南省昆明に生まれた。先祖は元の時代に西域から雲南に移住したサイイド・アジャッルとされ、父の名は馬哈只【マハッジ】といった。姓の「馬」は予言者ムハンマドの子孫であることを示し、ハッジは聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称に由来している。まあ、要するに、鄭和はイスラーム教徒だということだ。

 鄭和が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1392年に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。 靖難の役で功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられ、さらに鄭の姓を下賜された。

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 永楽帝は周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上、鄭和がその指揮官に抜擢された。彼がイスラーム教徒であったことが大きく関係していると思われる。1405年に始まった遠征は、永楽帝の治世中に6度に及び、対外拡張に消極的であった洪煕帝【こうきてい】はその中止を決定したものの、宣徳帝の時代に復活して第7回が行われた。前後30年近くに及ぶ大事業であった。

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 鄭和の南海遠征は「西洋下り」と呼ばれ、第1回(1405~07年)の航海では大船62隻、乗組員総数27,800名余りからなる大艦隊が、現在の上海付近の劉家港【りゅうかこう】から船出し、チャンパ、ジャワ、スマトラからマラッカ海峡を経て、インド西岸のカリカットに至って、帰国した。鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチあったというから、プロレスラーみたいな体格だ。でも、チンチンがないから声が甲高い。その甲高い声で、「野郎ども、出発するわよ!」って号令をかけた様子を想像すると、吹き出しそうになる。

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 鄭和艦隊は世界史上でも類いまれな大木造船からなる艦隊だった。艦隊の中心は大型艦船60余隻であったが、大型艦船だけでの航海は不可能だから、その周囲に100隻程度の小船が配され全体では200余隻の艦隊からなっていたとと考えるのが自然だ。これだけの大船団を迎えたほうはびっくり。明に「朝貢に来い」、と言われれば、すぐ「はい」となるよね。

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 艦隊の中核となった巨艦は、「宝船【ほうせん】」と呼ばれる横幅の広い安定した船で、「西洋宝船」、「西洋取宝船」などとも呼ばれた。その意味は「宝を取ってくる船」であり、各地の支配者に「皇帝からの贈り物」として与える諸貨物、各地の支配者から皇帝に献上された貨物などが搭載されたことからきていた。宝船は動きの鈍い巨艦であったが、大量の武器も装備されて軍事的能力も兼ね備えており、少なくとも400~500人、場合によっては1,000人に近い乗組員が乗り込んでいたのではないかと推測されている。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われている。手前の小さい船がコロンブスの乗ったサンタ=マリア号だけど、長さ23mしかなくてミニチュアに見える。

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 これが、2010年に南京で復元された宝船。復元された宝船は全長71.1メートル、排水量1600トン、上から順に第二甲板、主甲板、舳と船尾の楼の甲板、操縦室甲板、操縦室天上板と合計5層からなり、マスト6本に帆6枚、メインマストは高さ38メートル。写っている人間と比較すれば、どんなに大きいか分かるよね。


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 第1回から第3回までの航海は、いずれもカリカットを目的地としており、インド西岸以西にゆくことはなかった。第4回(1413~15年)の航海では、マラッカ海峡を通って本隊はインド西岸からペルシア湾岸のホルムズに至り、別働隊はアフリカ東岸のマリンディにまで至り、アラビア半島のアデンなどを通って中国に帰った。

その84年後にマリンディにやって来たのがヴァスコ=ダ=ガマだ。彼は喜望峰を迂回してやっとの思いでマリンディに至り、ここでアラブ人の水先案内人を雇ってインドのカリカットに到達する。この時乗っていた船が100トンほど、170人の乗組員で出発したが、航海を終えてリスボンに帰ってきた時は44人だった。乗組員の多くがビタミンCの欠乏が原因の壊血病に倒れた。ところが、鄭和の艦隊で壊血病で死んだ者は一人もいない。船上でモヤシを栽培してビタミンを補っていたからだ。

 そんなに優れた航海技術を持っていたのなら、マリンディから喜望峰を迂回してヨーロッパにゆくことも可能だったはずだ。でも、鄭和の艦隊はヨーロッパに行ってはいない。なぜ?。ヴァスコ=ダ=ガマは香辛料を手に入れたくて、未熟な航海術で必死こいてインドを目指した。でも、鄭和はヨーロッパに興味も関心もなかったからだ。

 イギリスの作家ギャヴィン・メンジーズは2002年に刊行した『1421:中国が新大陸を発見した年』で、鄭和艦隊がコロンブスよりも以前にアメリカ大陸に到達し、マゼランよりも以前に世界周航を成し遂げたと主張した。この書籍は世界各国でベストセラーになったが、残念ながら歴史学者からは偽史とみなされている。


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 また、第5回航海の時は、ホルムズからライオンや豹、ブラワから駝鳥【だちょう】、モガディシオから縞馬【しまうま】などの珍しい動物を連れ帰っている。特に永楽帝を喜ばせたのはアデンから贈られたキリンだった。この動物は日本でもキリンと呼んでるけど、英語名は古代アラビアの呼称で「速く走るもの」を意味する言葉に由来するとされるジラフで、世界的にはこの名で呼んでいる。これをキリンと呼んでいるのは日本と韓国・朝鮮だけだ。


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 これが、中国で言う本来のキリン、漢字で麒麟だ。そう、皆さんご存じのキリンビールのロゴマークだ。麒麟は王が仁のある政治を行う時に現れる、伝説上の神聖な生き物。鄭和が永楽帝に献上する際に、ジラフを麒麟として紹介した。現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」が、伝説上の動物「麒麟」の音に似ていたことから、これが本物の麒麟だとして珍重された。それが日本や朝鮮半島にも伝わったわけだが、現在の中国では「長頸鹿」と呼んでいる。

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南京市牛首山の鄭和の墓

 鄭和の航海は、中国のプレゼンスを南シナ海・インド洋の各地域に示し、明への朝貢を促すことで明の国威を発揚するのが目的だった。朝貢貿易は明にとって経済的負担は大きいのだが、60にも及ぶ国々から朝貢使節がやって来れば、国民の目から見れば永楽帝は素晴らしい皇帝だという評価になる。前回書いた通り、永楽帝には簒奪者の負い目があり、それが南海遠征に繋がったと僕は思うけど、どうだろうか。

 靖難の変の際に南京から脱出した建文帝が南海に逃げたという噂があり、建文帝に生きていてもらっちゃ困る永楽帝が、その捜索・殺害を命じたんだという説がある。まあ、話としては面白いけど、たった一人の人間を捜索するのに27,800人は多すぎるよね。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/01/11 17:29 】

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