なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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万暦帝【ばんれきてい】(神宗【しんそう】)は隆慶帝【りゅうけいてい】の第3子。隆慶帝が酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため36歳で崩御し、1572年わずか10歳で即位した。当初は遺命によって張居正【ちょうきょせい】が政務を行い、さまざまな政治改革を実現した。
張居正は万暦帝の後見をめぐる政争に乗じ、それまで宰相であった高拱【こうきょう】を蹴落として、待望の宰相(主席大学士)の地位に就いた。彼は皇帝の師として万暦帝を厳しく教育し、自分の意のままに動かすとともに、国政刷新に乗り出した。内政では官吏の綱紀粛正・税法の改正・検地(土地測量)の実施・戸口調査の強化などを進めた。こうした努力の結果、財政状況は久方ぶりに好転した。張居正が政治を執っていた10数年に国庫に積み上げた金額が400万両と伝えられている。また、対外的には国境警備を強化してモンゴルの侵入(北虜)にほぼ終止符を打った。
朝鮮の役
1582年に張居正が死去すると、万暦帝は政治に興味を失い、張居正の厳しい指導のもと良き皇帝たらんと真面目に努力していた少年時代とは一転して、政務をサボタージュするようになった。鉱山開発や商税増徴などのために民衆の生活は困窮し(鉱・税の害)、各地に反乱や民衆暴動が起きた。また日本の豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助し、国内では寧夏のボハイの乱、播州の楊応龍の乱が起きた。朝鮮の役を含めて万暦の三大征と呼んでいる。これら同時期に行われた3つの大規模な軍事行動には多大な軍費が投じられ、実態は不詳ながら『明史』によれば、合計1,000万両を超えたとある。
また、立太子問題から宮廷内の権力争いにからんで、東林・非東林の党争も激化して国力は急速に衰えた。
万暦帝の地下宮殿
国家にとって不可欠な出費を惜しんだ万暦帝であったが、私的な事柄には凄まじい贅沢をした。例えば鄭貴妃の子である福王を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている。また、自らの墓である地下宮殿の建設に800万両をかけるなど、むしろ浪費に生き甲斐を見いだすようになった。
明の十三陵
地下宮殿は明の十三陵のうちの万暦帝の陵墓・定陵のことである。明の十三陵は天寿山にある明代の皇帝、皇后、皇貴妃と皇太子等の陵墓群のことで、永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。定陵は1583年から建設を開始され、6年の年月を費やして完成。万暦帝のほか孝端皇后,孝靖皇后も合葬されている。
万暦赤絵
万暦帝の時代は日本やメキシコの銀が大量に流入したことにより、経済界は好況に沸き、その影響で文化的には最盛期を迎えており、景徳鎮における万暦赤絵などの陶磁器の名品が生まれた。万暦帝はこのことに気を良くしていたのだろうが、明の衰退は明らかとなっており、明は万暦帝の死後20年余で滅びてしまう。これを『明史』は「明の滅亡は、実に神宗に滅ぶ」と評した。
定陵は 1956~58年にわたって発掘され,地下 27mの深さにある墓の内容が明らかにされた。中国最初の学術的古代皇帝陵墓発掘であったが、考古技術が未熟な中での発掘であったため、大量の文物破壊を招いた。そのため、これ以後、中国政府は21世紀の今日まで古代皇帝陵墓の発掘を許可していない。
墓室は前中後左右の5つの室から成り,総面積は 1,195m2にも及ぶ巨大なもので,まさに地下宮殿と呼ぶにふさわしい。現在は人民を収奪した専制君主の贅沢のあかしとして公開されており、連日見学者で賑わっている。
文化大革命初期の1966年8月24日、旧思想・旧文化破棄を掲げる紅衛兵らにより定陵で「批判会」が開かれ、紅衛兵の弾劾演説の後、保存されていた万暦帝の亡骸は孝端皇后・孝靖皇后の亡骸とともにガソリンをかけられ焼却された。なんとも哀れなことである。
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