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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー満州の英雄・アイシンギョロ=ヌルハチ

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ヌルハチ

 清の太祖ヌルハチは女真族建州部のアイシンギョロ(漢字で愛新覚羅)氏の出身で1559年ヘトゥアラに生まれた。その出自については『満州実録』に次ぎのように書かれている。長白山の麓の湖で3人の天女の姉妹が水浴びをしていた時、鵲【かささぎ】の運んできた朱い果実が末の娘の喉にすべり込み、彼女は身籠もった。そして生まれた男の子、姓はアイシンギョロ、名はブクリ=ヨンションが、マンジュ(満州)の始祖である。何代か後のファンチャを経てその子孫のドゥドゥ=メンテムの時にヘトゥアラに居を構えた。メンテムの曾孫のフマンの6人の子供の4番目がギオチャンガの孫がヌルハチである、と。すごく高貴な生まれのように書かれているが、実際にはそんなに有力な家柄の出身ではなかったようだ。

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ヘトゥアラのヌルハチ像

 明は衛所制を通じて女真族を支配していたが、当時の女真族は4部に分かれており、部族ごとに辺境交易の勅書(交易許可証)を与えてい。しかし、16世紀になると辺境交易が活発化になり、交易権をめぐって部族相互が激しく争うようになり、騒乱の時代となった。ヌルハチもそうした時代の群雄の一人であったに過ぎない。ヌルハチが25歳の時にヌルハチの祖父と父が誤って明軍に殺され、これを機会にヌルハチは明からの代償として勅書30通を得て自立し、女真族の統一にいたる長い道程に踏み出していった。その時の彼の手勢はわずか100人程度。それが大帝国の基を築いていく。

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ヘトゥアラでの即位式(再現)

 ヌルハチはその後30年足らずで、海西女真など、他の女真の諸部族を次々と制圧して、1613年までにほぼ敵対勢力を討ち、女真族を統一。1616年正月、ヌルハチは貴族や重臣により、女真諸部族の長として「ゲンギュン=ハン(聡明なるハン)」の称号を贈られ、国号をアイシン、年号を天命と定めた。アイシンは彼らの言葉で「金」のことなんで、金国でいいんだけど、12世紀に完顔阿骨打の建てた金があるので、これと区別するため「後金」と呼んでいる。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラに置かれた。
 
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 これと前後して、ヌルハチは満州文字を作らせている。ヌルハチが国家機構を整備する上で文字が必要になったが、かつての女真文字はすでに使われなくなっていたからだ。写真は北京にあるチベット寺院の雍和宮本堂の扁額。一番右が満州文字で、モンゴル文字をもとにして作られた。一番左がそのモンゴル文字で、ともに縦書き。左から2番目はチベット文字だ。

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文殊菩薩

 ところで、満州って何だか知ってる?「マンジュ(=満州)」という言葉は文殊菩薩を意味するサンスクリット語の「マンジュシリ」から来ている。文殊菩薩信仰は、女真族のなかに深く広まっており、マンジュという言葉は聡明な者を意味した。「3人寄れば文殊の知恵」という諺があるよね。正確な時期は分からないけど、女真族は自らのことを満州と呼ぶようになったんだ。満州は地名だと思っている人が多いと思うけど、もともとは民族名だったんだよ。

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 あと、ヌルハチは八旗【はっき】と呼ばれる軍事制度を創設している。八旗は文字通り8種類の旗のもとに統率された軍団を指している。300人で1ニル(矢)、5ニルで1ジャラン(隊)、5ジャランで1グサ(旗)として編制されたんで、1旗は7,500人で構成される。だから、八旗は6万人の兵力になる。後にモンゴル八旗、漢人八旗も作られ、全24旗となった。

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瀋陽故宮 太政殿

 1618年、ヌルハチは従来の戦闘相手とはスケールの違う大敵、明との正面からの対決に乗り出すことになる。「七大恨」という7箇条を掲げて明に宣戦布告したヌルハチは、撫順【ぶじゅん】城を攻めて占領した。これに対し明は10数万の大軍を動員して巻き返しをはかり、4路に分けてヌルハチの本拠ヘトゥアラ城を目指した。ヘトゥアラの西北のサルホ山で両軍の主力は遭遇し、数にして半分くらいの後金軍が2日間の激戦の末に明軍を撃破した。1621年には、当時は遼東と言われていた遼河の東側全域(後の満州)を平定した。ヌルハチは遼陽、さらに1625年には瀋陽(満州国時代の奉天)に定め、盛京【せいけい】と称した。

 1626年、遼西地方に侵入して寧遠城を包囲したが、明の将軍・袁崇煥【えんすうかん】の守りに阻まれて失敗した。この時に活躍したのが明がイエズス会宣教師アダム=シャールに命じて造らせた大砲だった。この「神の福音を説く宣教師の作った大砲」は大いに威力を発揮し、ヌルハチの満州軍を破った。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃したが、この戦いの最中に砲弾の破片で背中に傷を負い、1626年8月11日に没した。享年68であった。

 この前お話した通り、袁崇煥はその4年後に猜疑心の強い崇禎帝に謀反の疑いをかけられ処刑されてしまう。本当に崇禎帝は馬鹿だよね。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/01/21 17:29 】

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