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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー平戸の福松ちゃん・鄭成功

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鄭成功

 鄭芝竜【ていしりゅう】の通称は一官(老一官)で、外国人にはイークァンと呼ばれていた。鄭芝竜は福建省の出身で、泉州府の厦門【アモイ】島、金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。まあ簡単に言えば海賊の親分なんだが、日本の平戸で田川七左衛門の娘マツと結婚した。1624年、二人の間に生まれたのが鄭成功【ていせいこう】で、幼名は福松と言った。福松ちゃんは幼い頃は平戸で過ごしていたが、7歳のとき、単身福建省の父の許におもむいて名を森【しん】と改めた。南京の太学で学び、15歳のとき、院考に合格し、泉州府南安県の生員になっている。

隆武帝
隆武帝

 1644年に崇禎帝が自殺して明が滅亡すると明の王室の一部は鄭芝竜を頼り、明の復興を策して清朝に抵抗した。鄭芝竜・成功親子は福建で明の皇帝一族の唐王・朱聿鍵【しゅいついん】を立てて隆武帝として擁立した。

 鄭成功が父の紹介で隆武帝に謁見した際に、朱姓を賜っている。隆武帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言ったという。彼は畏れ多いということで朱姓を使わず、鄭成功と名乗った(成功の名もこの時に賜ったもの)が、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺【こくせんや】」と呼ばれるようになる。

 隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝竜は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝竜は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。

永暦帝

 その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔【しゅゆうろう】が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。鄭成功は、東シナ海・南シナ海での交易から得られる潤沢な資金を財政基盤として、1659年には長江をさかのぼって南京にまで迫り、海戦に慣れない清軍を悩ませた。

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 その間、鄭成功は5回にわたって日本の徳川幕府に手紙を送り、援兵を請うている。これを「乞師【きっし】」という。当初幕府の内部には出兵に賛成する者もいた。しかし、慎重論もあり、幕府は長崎の中国商人などから積極的に情報を集めた結果、清の優勢を知って、明清交代に介入しない方針に決定してしまう。何とも弱腰で情けないね。

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 海外貿易に依存する鄭成功の財源を断つため、清は1661年には遷界令【せんかいれい】を発して、福建・広東を中心とする沿海の住民を20キロ以上内地に強制移住させ、沿岸を無人地帯にして鄭氏勢力と住民との接触を絶とうとした。当時、内地の永暦政権も滅亡に貧しており、形勢の不利を見て取った鄭成功は、海外に新たな拠点を作るべく、1661年台湾に侵攻した。

 写真は2012年に台南市で復元された鄭成功時代の古帆船。長さ30メートル、幅7.6メートル、排水量138トンの大型ジャンク船だ。約1億台湾元(約2.7億円)の政府補助を受け、鄭成功の出生地である長崎県平戸市の松浦史料博物館にある「唐船の図」を元に復元した。竣工後に台湾一周、その後は長崎への航海も予定されていたんだけど、試験航行を行った際、主帆柱が折れてしまったため、計画はおじゃんに。修復されたという話も聞かないし、その後一体どなったんだろうね。

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ゼーランディア城

 当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していた。1623年に台湾に進出したオランダが最初に築いた要塞がゼーランディア城だ。ゼーランディアは「海の国」と言う意味で、ニュージーランドは「新しい海の国」という意味なんだよ、知ってた?

 鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に同3月30日からゼーランディア城を攻撃、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し鄭氏政権を樹立した。鄭成功はゼーランディア城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配の居城とし、「王城」と呼ばれるようになる。これにより、38年間に及んだオランダの台湾支配が終わり、オランダはバタヴィアへと撤退した。


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 日本の統治時代にオランダ時代に築城された城砦はほぼ完全に姿を消すこととなった。戦後、国民党政府は城址を安平古堡【アンピンコホウ】と命名し、僅かに残る城址を保護している。ちなみに、地図の中の年表にあるプロビンシア城(赤嵌楼【せきかんろう】)は、台湾統治の行政機関が置かれていた城。ご参考までに。

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康煕帝

 台湾に足場を築いた鄭成功であったが、わずかその4カ月後の6月23日に熱病で亡くなってしまう。39歳という若さだった。そのあとは子の鄭経【ていけい】が厦門から移って意志を継いだ。鄭氏台湾は3代、22年にわたったが、鄭成功の孫の代で内紛により弱体化し、1683年に康煕帝【こうきてい】によって征服されてしまう。1681年には三藩の乱も鎮圧されており、清に対する漢人の抵抗は終わった。

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近松門左衛門

 ところで、鄭成功の別名である国姓爺って聞いたことあるよね。そう、近松門左衛門の代表作『国性爺合戦』だ。「姓」の字が「性」になってるけどね。初めは人形浄瑠璃の作品だったけど、後に歌舞伎化された。

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「国性爺合戦」虎狩りの段

 『国性爺合戦』は鄭成功をモデルとする混血児和藤内(和でも唐でもないという洒落)の活躍を描いた戯曲は、平戸の和藤内が日本に逃れてきた明の皇女を助けて大陸に渡り、明の遺臣呉三桂と協力して韃靼兵(清軍)と戦い、明室再興の宿願を達成し、その功績によって国性爺といわれる、という話になっていて、史実とは随分違っている。1715年、大坂の竹本座で初演され、17カ月のロングランという大成功を収めた。僕も一度観てみたいと思ってるけど、なかなか実現しない。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/01/28 16:51 】

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