なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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康煕帝【こうきてい】には35人の男子があり、そのうち成年にいたったのは20人であった。康煕帝の皇太子問題は、彼の晩年に暗い影を落とすことになったのだが、その発端は、1667年、彼が22歳の時に、満1歳になったばかりの胤礽【いんじょう】を皇太子に立てたことに始まる。胤礽には兄の胤禔【いんし】がいたが、胤禔は皇后の子ではなかったため、康煕帝は嫡長子を皇太子に立てるという漢族王朝の伝統に従って、皇后から生まれた第2子の胤礽を皇太子としたのである。
康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成年しても爵位や領民を与えず、部屋住まいにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。ところが、ジュンガル部のガルダン=ハン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、後金のハンや清朝初期の皇帝は満州族の部族長の合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満州族には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。
一方、特別扱いされて成長した胤礽は、康煕帝の意に反して高慢貪欲で、徒党を集めて勢力を振るいたがり、康煕帝の身体の不調に際しても心配の色すら見せない。そうした胤礽の性格から父と子は次第に不和となっていった。
そうした中、1703年に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。1708年秋、内モンゴルに赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。
一方、特別扱いされて成長した胤礽は、康煕帝の意に反して高慢貪欲で、徒党を集めて勢力を振るいたがり、康煕帝の身体の不調に際しても心配の色すら見せない。そうした胤礽の性格から父と子は次第に不和となっていった。
そうした中、1703年に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。1708年秋、内モンゴルに赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。
第8皇子胤禩
胤礽が廃された後、皇長子胤禔が第8皇子胤禩【いんす】を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒【ベイレ】の爵位を取り上げた。さらに、第3皇子胤祉【いんし】が、胤禔はチベット増に頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤禔は群王の爵位を取り上げられ、監禁された。
その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は1709年春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙1712年に再び廃されて幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てなかった。2度も皇太子を廃された奴は他にいないんじゃないかね。
第14皇子胤禵
その後康煕帝の死にいたるまで、次の皇帝の座をめぐって皇子たちの間には激烈な暗闘が行われた(九王奪嫡)。元々は皇后の産んだ第14皇子の胤禵【いんだい】が有力な帝位継承候補であったとされる。
その中で第4皇子の胤禛【いんしん】は有力候補にもはいらず比較的目立たなかったが、1722年、康煕帝の死後に後継者として発表された。皇太子を指名しないまま臨終を迎えた康煕帝は、側近の臣下の手をとり、その手のひらに四と書いた。それは第4皇子を指名したのであろうとされ、即位したのが雍正帝であった。実は十四と書いてあったのを、侍臣が指を曲げて隠したとか、なめて消してしまったとかの噂も流れ、「雍正簒位」として民間に広まることとなる。
第13皇子胤祥
即位後、雍正帝は兄弟のうち有力な者を捕らえ、第8皇子胤禩をアキナ(阿其那=犬)、第9皇子胤禟をサスヘ(塞思黒=豚)と改名して幽閉し冷酷に排除した。なんとも子供じみたことをやるよね。また、皇帝の諱を忌避する風習から、雍正帝に忠誠を尽くした第13皇子胤祥【いんしょう】除く兄弟の字を胤から允に改称させた。
雍正帝
皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝【ようせいて】は皇太子を擁立しない方針を決めた。代わりの後継者指名法として、皇位継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後、紫禁城乾清宮の玉座の後ろにある「正大光明」と書かれた扁額(順治帝の揮毫)の裏に隠し、崩御後に一定人数が立ち会った上で勅書を開く、という方法を考案した。これを「密勅立太子法」(太子密建)と言う。
それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、こういった事態を封じ、皇帝の専制君主の座が確立した。この方法により、清代には暗愚な皇帝が比較的出なかったと言われる。
雍正帝と言えば、「文字の獄【もんじのごく】」でも有名だよね。1726年、科挙の試験である郷試において、内閣学士の査嗣庭が出題した『詩経』の一節である「維民所止」(これ民のおるところ)という4字が、維は雍の、止は正の首をはねたものだとして、査嗣庭は投獄され病死、死体はさらし者とされた。さらにその息子も死刑、一族も投獄されたり、流罪に処されるという非常に厳しい処分を受けている。
雍正帝は「歴史上まれにみる徹底した独裁君主」であったが、単なる恐怖政治家ではなく、史上まれに見る勤勉な皇帝でもあった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で硃批【しゅひ】(皇帝自身による朱墨による諾否、その他の書き込み)を満洲語で書かれた上奏文なら満洲語で、漢文で書かれた上奏文なら漢文で書き込み、一日の睡眠時間は4時間に満たなかったという。
45歳で即位してから13年。1735年、働き続けた雍正帝は58歳で崩御した。仕事中毒とも言えるような働きぶりにからくる過労死だったかもね。
※肖像の写真は中国歴史ドラマ「宮廷女官若曦」から拝借しました。
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