なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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乾隆帝
雍正帝は1735年に在位13年で亡くなり、第4子弘暦【こうれき】が跡を継いだ。最盛期の清朝を統治したのが第6代乾隆帝【けんりゅうてい】である。雍正帝の精力が主に内政に集中されたのに対し、乾隆帝の時代は再び外征に力が注がれた。
彼は晩年、自らを「十全老人」と称したが、これは彼がその治世に10回の戦争を行い、それにすべて勝利したことを自賛したものである。彼の言う「十全の武功」とは、①1754年のジュンガル部出征、②58年のジュンガル部への再征、③59年のウイグル族征服、④49年の苗【ミャオ】族制圧、⑤76年の苗族への再征、⑥69年のビルマ遠征、⑦88年の台湾の反乱の鎮定、⑧89年のベトナムの服属、⑨90年のネパールの征討、⑩92年のネパールへの再征、の10回の軍事行動を言う。ところがこの10回とも乾隆帝は一度も出陣していない。自ら軍隊を率いて出征した康煕帝とはだいぶちがっていた。またこのうち実質的な勝利といえるのは①②③、つまり後年の新疆【しんきょう】省設置につながる戦役くらいで、その他は人命と莫大な戦費を費やしながら勝利とは言えない、実質を伴わないものだった。それでも現在の中国が領土権を主張する範囲は全てこの時の大清帝国の領土に入っている。
清では3年に1度、八旗兵を総動員した閲兵式【えっぺいしき】、軍事演習が行われた。この行事に招いた藩部・属国の代表に清の勢力の偉大さを見せつける目的もあった。上の図は即位4年目の1739年、完全武装で閲兵式に向かう29歳の乾隆帝の姿を描いたものだ。威風堂々と馬を進ませる乾隆帝の自信に満ちあふれた表情をよくとらえている。
鎧には黄色の地に竜など瑞祥を示す多くの模様が施されているが、描かれている竜は5本の爪と2本の角を持っている。5本爪の竜は皇帝しか用いることは出来ない。また、黄色は皇帝のシンボルカラー。だから、庶民が黄色の衣服を着ることは厳しく制限されていた。あっ、そう言えば、紫禁城の瓦も黄色だよね。
カスティリオーネ
この絵を描いたのがイタリア出身のイエズス会士カスティリオーネ、中国名は郎世寧【ろうせいねい】だ。1724年雍正帝はキリスト教を禁止し、宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができたので、カスティリオーネも残り、1766年に北京で亡くなっている。
カスティリオーネと言えば円明園【えんめいえん】の設計に加わったことでも知られてるよね。円明園はフランスのヴェルサイユ宮殿を範としたバロック式庭園として建造され、中国最初の噴水を持つ庭園として貴重な文化財となった。しかし、1860アロー戦争の時、北京を攻撃したイギリス・フランス軍が北京を占領した際、跡形もなく焼き払われた。両軍兵士は略奪の痕跡を消すために火をつけたというから非道い話だ。円明園は長い間廃墟として放置されててきたが、最近はイギリス・フランス軍の蛮行の歴史的な記録として破壊された状態のまま整備され、公開されている。
また、乾隆帝は詩作を好み、生涯の詩作10万首と言われるが、学問も非常に大切にし、学者を総動員して大部の書物を編纂させた。中でも圧巻は『四庫全書』である。全国の書物を提出させ、4部門(経書・史書・諸子・文集)に分類して筆写したもので、紀昀【きいん】をはじめ360余人の学者が編纂に当たり、10年の歳月を費やして完成させた。なんと全部で79,070巻、230万ページ、36,382冊もあり、文字数にして10億字という、気の遠くなるような分量だ。これを7部作らせたんだけど、印刷じゃないよ、全部手書き。ただ残念なことに、太平天国や義和団事件などの戦乱によって失われたものが多い。
四庫全書編纂のために全国から書籍を集めたとき、江南地方からの提出が少なかった。明朝の基盤であった地域なので、反清朝の文言のある書物が多いためではないかと疑った乾隆帝は、さらに強く書物の提供を命じた。その結果、多数の反清朝の言辞や文言が見つかり、それらはすべて焼き捨てた。ということは、『四庫全書』編纂の目的には、反満州人、反清朝の書物を探し出し、取り締まるという文字の獄につながる目的もあったということだ。
ヘシェン(和珅)
これらの軍事的・文化的な成功により康煕・雍正・乾隆の三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。乾隆帝は1796年、在位60年で祖父康煕帝の在位を越えるのをはばかって嘉慶帝【かけいてい】に譲位したが、太上皇帝としての訓政3年を加えると63年となり、中国史上最も長期間君臨した皇帝となった。その一方で退廃の芽生えもあった。乾隆帝は奸臣のヘシェン(和珅)を重用し続けた。
ヘシェンは宮廷で乾隆帝の輿【こし】の担ぎ手として仕えた際に、その好男子ぶりが皇帝の目に留まり、スピード出世を果たした。1776年には軍機大臣に任ぜられ,爾来20余年その地位にあった。その間多くの要職を兼ね,乾隆帝の娘を息子の嫁に迎え、貪欲な収賄を続け、官界を汚職の巷【ちまた】と化した。1799年乾隆帝が死ぬと直ちに罪を問われ,自殺させられた。在職中多額の賄賂をむさぼり取り,没収された財産は8億両にのぼったという。なんと国家予算の15年分だ。当時、「和珅がころんで嘉慶帝が腹一杯」という民謡がはやったんだってさ。 中国では2015年に周永康が汚職で失脚してるけど、昔から汚職天国だったんだ。
写真は「国よりも豪邸」と言われたヘシェンの邸宅跡。この豪邸は当時「和第」と呼ばれていたが、1851年、咸豊帝【かんぽうてい】の弟にあたる恭親王奕訢【えききん】が持ち主となりその時に名が「恭王府」と改められた。
「恭王府」内部
恭王府の敷地面積は約3.1万㎡。な、な、なんと、9,400坪だよ。これが全部賄賂で造られたんだから、嫌になりますね。
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