なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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1921年、植民地インド政庁の考古調査局の一員であったインド人考古学者サハニが、パンジャーブ地方のハラッパーにおいて、青銅器時代の都市遺跡を発見した。こうした大発見はえてして続発するものであり、翌22年には同じ考古調査局のインド人学者バネルジーが、約600キロ西南方の「死者の丘」を意味するモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ)で、クシャーナ時代の仏塔を調査中に、ハラッパーのものとよく似た都市遺跡を掘り出した。
両遺跡の発見に驚いた考古調査局では、さっそく局長のマーシャルが指揮を執り、1924年からモエンジョ=ダーロの大規模な発掘を行った。前2600年ころ興ったこの都市文明は、中心地域を流れる大河の名をとってインダス文明と呼ばれ、また最初に発見された遺跡の名にちなんでハラッパー文明と呼ばれる。
両遺跡の発見に驚いた考古調査局では、さっそく局長のマーシャルが指揮を執り、1924年からモエンジョ=ダーロの大規模な発掘を行った。前2600年ころ興ったこの都市文明は、中心地域を流れる大河の名をとってインダス文明と呼ばれ、また最初に発見された遺跡の名にちなんでハラッパー文明と呼ばれる。
謎その1 インダス文明にはなぜ神殿がないのか?
モエンジョ=ダーロの都市は、最初の段階から一定の計画に基づいて建設されている。都市の西北地区には、泥レンガの基台の上に築かれた城塞部と呼ばれる小高い丘があり、ここに大浴場、穀物倉、集会堂などの公共の建物が集中している。だが、メソポタミアやエジプトと違い大規模な宮殿・神殿・王墓・王像・戦勝記念碑などは存在しない。大浴場(写真の手前にあるプール状の遺構)は焼レンガ造りの立派なもので、タテ・ヨコ12×7メートル、深さ2.5メートルあり、南北に階段がつけられている。水は隣接する部屋の井戸から汲み上げられ、使用済みの水は排水口から流し出された。ここは恐らく宗教的な沐浴【もくよく】の場であった。沐浴は水に浸かって穢れを取り除くことで、日本でも禊【みそ】ぎというのがある。
ヒンドゥー教徒は今でも沐浴を重視していて、インド観光で必ず訪れるのがヴァーラーナシー(昔のベナレス)のガンジス川での沐浴見学だ。1995年に制作された映画『深い河』では秋吉久美の沐浴シーンが話題になったよね。インド人は5000年も前から沐浴する習慣があり、今でも続いているわけだ。モエンジョ=ダーロには神殿がないから、恐らく沐浴場が神殿の代わりを務めていたんだろうね。
排水溝
謎その2 水洗トイレがあったって本当?
市街地には、直角に交わる大小の道路が通じており、それらの道路の多くは焼レンガで舗装されている。道路で区切られた各ブロックには、焼レンガ造りの住宅が並んでいるが、侵入者に対する警戒心からか、戸口は大通りにではなく小路に向かって開かれている。各家には浴室と給水・廃水の施設を供え、使用された水は小路の排水溝を通って大通りの溝に流れ込むようになっており、清掃用のマンホールもあった。腰掛け式のトイレと汚物の沈殿槽も見つかっているが、排水溝が整備されていることから「水洗式トイレ」と考えられる。僕の家のトイレが水洗になったのは40年程前で、それまでは汲み取り式だった。今から4000年も前のインダス文明では100%水洗化が実現されてたなんて、驚きだよね。

謎その3インダス川流域ではないのにインダス文明?
インダス文明というとモエンジョ=ダーロとハラッパーが断トツ有名だけど、1990年代にその存在が明らかになったドラーヴィーラー遺跡は、それまでの古代文明観に一石を投じた。それは、この文明がインダス文明に属していると考えられるにもかかわらず、地図を見ておわかりの通りインダス川から300キロほど離れており、そこから河水をひいた形成はないことである。つまり、古代文明は大河の流域に出現したという常識に反していたのである。
じゃあ、どうやって水を確保したのか?遺跡の中で目立つのが都市を取り囲むように造営されている多くの貯水槽だ。この貯水槽は近くの枯れ川とつながっている。この枯れ川はモンスーン(雨期)になると水量の多い川になる。そこから水を引いて貯水槽に溜めて乾期に備えたと考えられる。つまり、この文明は大河でなくモンスーンがもたらしたものだったんだ。
メヘルガル遺跡出土のテラコッタ
謎その4 インダス文明の起源は?
インダス文明の起源については西方文明の影響が指摘されてはいるが、詳しいことはわかっていない。しかし、最近イラン高原とインダス平原の境界地域にあるメヘルガル遺跡の調査で、前7000年頃にさかのぼる農耕文化が存在していることが明らかになってきた。メヘルガルでは小麦・大麦の栽培、羊・山羊・牛の飼育を始めており、金属器も使用、さらに前3000年頃には印章、男女のテラコッタ像など原ハラッパー文化のものと言えるような遺物が出土している。ところが、この地の集落は前2500年頃突然放棄されてしまう。ということは、イラン高原東端部で集落を築いていた人々が、なんらかの事情で東方の平原地帯に移り、都市文明を誕生させたということになる。この農耕文化とインダス文明の連続性を示すものとして双方の遺跡、遺物に見られる牛の崇拝があげられている。
謎その5 インダス文字は何語?
写真は都市遺跡から出土した凍石製の印章。恐らく商人が帳簿の押印に用いたり、財産や商品に泥で封をしたあとの押印に用いたんだろう。押印は呪術的な行為であるため、印章の面には牡牛、象、虎など神聖視される動物や神像らしきものが彫られている。牛を神聖視することは現代まで続いており、インドでは牛が大事にされてるので、街中牛だらけで、うっかり歩いていると牛のウンチを踏んでしまう。そして、これらの動物と一緒に象形文字が刻まれいるが、これがインダス文字だ。文字の種類は全部で400程あるが、残念ながらまだ解読されていない。なんせテキストが印章のような短文がほとんどで、最も長いものでもわずか27文字しかない。文字の配列をコンピューター処理するなどしてドラヴィダ系らしいというところまでは分かってきたようだ。
踊り子像
謎その6 インダス文明を築いた民族は?
インダス文明を築いた人々がどのような民族であったかは、文字が解読出来ていないので正確なことは分からない。だけど、モエンジョ=ダーロ出土の「踊り子像」の唇が厚く、はれぼったい目をしていることから、イラン南部に住んでいたドラヴィダ語系民族だろうと推察されている。
インダス文明を築いた人々がどのような民族であったかは、文字が解読出来ていないので正確なことは分からない。だけど、モエンジョ=ダーロ出土の「踊り子像」の唇が厚く、はれぼったい目をしていることから、イラン南部に住んでいたドラヴィダ語系民族だろうと推察されている。
タミル人
ドラヴィダ語系民族は現在は南インドに居住し、全インドの5分の1を占めている。その言語であるドラヴィダ語はインド=ヨーロッパ語族にも、南アジア語族にも属さない。西方からインドに移住し、先住民を征服してインダス文明を築いたと考えられている。しかし、前1500年頃に西北からインドに入ってきたアーリヤ人に押され南インドに追われ、南インドでサータヴァーハナ朝、チョーラ朝、パーンディヤ朝など、独自の文化を持つ国家を展開させた。現在、南インドのタミル人のタミル語はドラヴィダ語を継承しており、彼らはアーリヤ系インド人とは異なるドラヴィダ系インド人として残っている。
謎その7 インダス文明はなぜ滅びたのか?
以前はアーリヤ人の侵入説が有力であったが、年代測定法が発達したことにより、アーリヤ人の侵入と都市文明の終末との間に200年以上の開きがあるとわかり、現在ではほぼ否定されている。それに代わるインダス文明衰退の原因については、大洪水、地殻の隆起による大氾濫、主要河川の流路変更に文明衰退の原因を求める説が出た。しかし、文明圏は広大なので全体が影響を受けることは考えられないし、被害にあった住民がなぜ移住して新しい都市を造らなかったのか、文明圏からすべての都市が消えたのは何故か、という疑問が残る。
気候の乾燥化と塩害(地中の塩分の増加による肥沃土の低下)とが重なって、農業生産の減退がもたらされたとする説もある。乾燥化の原因としては過度の放牧や焼レンガ製造のための樹木伐採があげられ、人為的な自然破壊が文明を消滅させたとして、自然環境保護の運動家から支持されている。しかし、これにも異論がある。メソポタミアとの貿易の衰退が都市の衰退をもたらしたとする説もあるが、それが都市の消滅をもたらすほど致命的だとも考えられない。
まあ、結局都市文明消滅の決定的な原因は現在のところ不明である。そんなんでいいんかい?いインダス。

謎その8 インダスって何?
ところでインダスの意味をご存知だろうか?これがラテン語になるとIndusだ。でも、この川はもともとはサンスクリット語で単に「大きな川」という意味のShindhu(シンドゥ)で呼ばれていた。それをこの地にやって来た西方の連中が地名と勘違いし、インダス川下流域をシンドゥと呼んだ。だから、教科書の地図を見てもらうと、モエンジョ=ダーロがある場所はシンド地方になってるよね。やがてSがとれてHindhu(ヒンドゥ)となり、さらにHがとれてIndhu(インド)になった。だから、シンドもインダスもヒンドゥーもインドも同じ意味で、もともとは川のことなんだけど、地名となったというわけだ。
ちなみに、インドの正式名称はサンスクリット語で「バーラト・ガナラージャ」で、インドではないんだ。『マハーバーラタ』はバーラタ族間の戦いを描いた叙事詩だけど、インド人はそのバーラタ族の子孫を自認していて、「バーラタ族の国」という意味で自分たちの国を呼んでいる。知ってた?インドではインドのことをインドと言わないなんて、インド人もびっくりだね。
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