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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーダルマの政治・アショーカ王

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アレクサンドロス大王

 前330年にアケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンドロス大王は、さらに東方遠征を進め、ヒンドゥークシュ山脈の北のバクトリアとソグディアナを征服した。その後かれは南に向かい、3万の部隊を率いてインドに入り、前326年2月にインダス川を渡ってタクシラに入城した。タクシラ王は戦わずして軍門に降ったのである。続いてアレクサンドロスは土着勢力を服従させたり滅ぼしたりしながら、パンジャーブの東端近くにまで進軍した。インド軍の主力である象軍には、騎兵隊の敏捷な動きで対抗している。象の群れは騎兵隊の奇襲を受けて混乱し、味方の兵を踏みつけながら逃走した。

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 その頃、ガンジス川流域を支配していたのは、マガダ国のナンダ朝であった。ナンダ朝は巨富と軍事力によって近隣の諸国を倒し、ついにガンジス川の全流域を支配下に置いた。シュードラ出身とされるこの王朝は旧来の身分秩序を崩し、マウリヤ朝による帝国建設の露払いの役割を果たした。

チャンドラグプタ
チャンドラグプタ

 前320年ころのマガダ国の辺境で兵を挙げたチャンドラグプタは、都のパータリプトラに攻め込んでナンダ朝を倒し、マウリヤ朝を創始した。彼はその後ただちに西方に進軍して、アレクサンドロスの死後の混乱状態にあったインダス川流域を併合し、さらにデカン方面へも征服軍を送った。ギリシア側の文献によると、チャンドラグプタの軍隊はナンダ朝の軍隊の約3倍、歩兵だけでも60万、騎兵は3万、象は9000、戦車は数千であったという。ここにインド史上初めて、ガンジス・インダス両大河の流域とデカンの一部を合わせた帝国が成立した。

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 チャンドラグプタはさらに、前305年ころアレクサンドロスの東方領の奪回を目指して侵入してきたセレウコスの軍を迎え撃ち、その進軍を阻んだ。そして、講和条約を結んで、500頭の象と交換に現在のアフガニスタン東部の地を獲得した。4年後にこの象の大部隊は、西アジアの覇権をかけたイプソスの戦いにおいて、セレウコスの勝利に貢献することになる。

 また、この講和を機に、セレウコスの娘がマウリヤ朝の後宮に迎えられ、さらに使節の交換も行われた。この時インドに派遣された使節が『インド誌』の著者メガステネースであった。この世の生涯を永遠に輪廻転生する霊魂の一時的な通過期間とみたことから、インド人は歴史書をまったく残さなかった。歴史の記述に情熱を傾けた中国人とは対照的である。そのため、古代インドの歴史については不明な点が多かったのだが、『インド誌』の中でサンドロコットスと呼ばれている人物がチャンドラグプタに比定されたことにより、インドの歴史研究の幕が開けられた。

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アショーカ

 紀元前304年頃アショーカはマウリヤ朝第2代ビンドゥサーラ王の多数の王子の一人として生まれた。成年に達したアショーカはタキシラで起きた反乱を鎮圧して功績をあげ、父王の死で長兄らとの王位争いに勝って即位した。この時、99人の異母兄弟を殺したと言われる。即位後も暴虐な王として恐れられ、王の通った所はすべて焼き払われ草木が1本も生えていない、と言われるほどの暴君だったと伝えられている。

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 そんなアショーカ王にとって転機となったのが、即位8年に行われたデカン高原東北部のカリンガとの戦争だった。カリンガを征服したものの、両軍あわせて数十万の犠牲者を出すという、壮絶な戦いとなった。このことを悔いたアショーカ王は仏教に深く帰依し、征服戦争を放棄すると、仏教の理想を実現するための政策を行った。高校の世界史ではダルマ(法)を理想とする統治を行った、と習ったよね。

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 仏教に改宗したアショーカ王は、全土を仏塔で飾ろうと思い立ち、ブッダの没後に建てられた8つの仏塔のうちの7塔から仏舎利【ぶっしゃり】(ブッダの遺骨)を取り出して、新たに建立した8万4千の塔に分納した。仏教では「八万四千の法門」なんて言い方もするけど、84,000は「たくさん」という意味で、実際に84,000建てたという意味じゃないよ。

 ついで、高僧に案内されてブッダの生涯に関係する聖跡を巡り、石柱や岩壁に法勅を刻んだ。玄奘は『大唐西域記』で、130以上のアショーカ王建立の塔について記しているが、全部がアショーカの塔であったとは考えられない。写真の左はブッダ生誕の地ルンビニーの石柱法勅、右はヴァイシャリーの石柱法勅。ほとんどの石柱法勅は倒壊してしまっており、ヴァイシャリーのものだけが唯一立った状態で残っている。

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 磨崖法勅は辺境地帯に造られたのでなかなか見ることができないが、平成18年にパキスタンのシャーバーズ・ガリのものをようやく写真におさめることが出来た。
 
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第3回仏典結集の地クムラハールの遺跡

 アショーカ王が仏教を大いに保護するのを見て、異教徒や不純な思想を抱く者たちが教団に入って来たため、正しい修行が出来なくなった。そこでアショーカ王は、長老のモッガリプッタを援助して異端的な僧侶を追放させている。教団を浄化したモッガリプッタは、1000人の高僧をパータリプトラの鶏園寺に集めて第3回の仏典結集【けつじゅう】を開催し、そこで確認されたブッダの正説を広めるため、アフガニスタン・シリア・エジプト・マケドニアなどに仏教伝道師を派遣したとされているが、残念ながらこれらの地域に仏教が広まることはなかった。

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スリランカ最古のイスルムニア精舎

 唯一伝道に成功したのがスリランカ。出家した王子マヒンダと4人の長老が派遣され、スリランカは上座部仏教の中心地となり、ここから東南アジアへと仏教が広まって行った。

 アショーカ王は「全ての人民はわが子である」と宣し、民族・宗教・階級を超えて帝国の全構成員に接近しようと試みた。そして、人民を階級に分断するヴァルナ制度や、異民族を劣等視するアーリヤ至上主義は無視した。パレスチナのユダヤ教徒とイスラーム教徒の争い、シリアやイラクにおけるシーア派とスンナ派の争いなど、世界中で宗教の違いから来る紛争が続いているけど、そんな今こそアショーカ王の統治方法を見習ってもらいたいもんだ。

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  写真はアショーカ王がサールナートに建てた石柱法勅の柱頭部。世界史の授業で習ったよね。サールナートって覚えてるかな。そう、ブッダが初めて5人の修行者に説法した場所だったよね。これを初転法輪【しょてんぼうりん】という。車輪が転がるようにブッダの教えが弘まっていくということで、ブッダの説法を転法輪と言っていて、ライオンの足許の法輪(ダルマ・チャクラ)がそれを表している。

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 4頭背中合わせの獅子の彫刻は、ブッダの教えが四方に行き渡ることの象徴。ブッダの説法は獅子吼【ししく】とも言われるので、ライオンがそのシンボルだということだね。この柱東部は現在インドの国章として用いられており、10ルピー紙幣の左下にも描かれている
 
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 これはご存じインドの国旗だ。中央にある輪は、永遠の真理・正義を表現したものなんだけど、もちろん石柱法勅の法輪を写したものだ。ダルマによる統治というアショーカ王の理想が2200年後のインドで蘇ったということだ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/02/27 16:16 】

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コメント

--- 質問 ---

前320年ころのマガダ国の辺境で兵を挙げたチャンドラグプタは、都のパータリプトラに攻め込んでナンダ朝を倒し、マウリヤ朝を創始した。彼はその後ただちに西方に進軍して、アレクサンドロスの死後の混乱状態にあったインダス川流域を併合し、さらにデカン方面へも征服軍を送った。ギリシア側の文献によると、チャンドラグプタの軍隊はナンダ朝の軍隊の約3倍、歩兵だけでも60万、騎兵は3万、象は9000、戦車は数千であったという。

この文について。奴隷の王国マガタは、Gangis河河口の南東部、Gangisを服従させ、同族のIndus全域を解放した。だが、主力部隊がIndusに入るスキをついて、Gangisのバラモン教クシャトリアが連合して、東端のマダカを攻め落とし、直ちに西へ向かって、Indusのマガダ主力軍とたたかった。この時の軍勢が、マガダ10万に対して、チャンドラグプタが歩兵30萬その他、という筋書きと理解しましたが、これでよろしいか? 奴隷とクシャトリアの戦いだった、という意味です。団勞喝
北野正一  *  URL[編集] 【 2019/03/09 19:28 】
--- Re: 質問 ---

ナンダ朝はシュードラ出身の王朝だったので、それでおおまか正しいかと思いますが、シュードラを奴隷と表現するのは如何なものでしょうか? 森田本淳
ホンジュン  *  URL[編集] 【 2019/03/10 09:04 】

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