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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーブッダの力を借りて・高麗

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王建

 王建は朝鮮半島の西南海岸地方で商業・貿易にかかわった地方豪族で、開城【ケソン】に生まれた。新羅末期の反乱軍の指導者・弓裔【きゅうえい】の武将として頭角を現し、弓裔が地方政権を樹立するとその首相格となった。弓裔が暴君化して部下の人望を失うと、周囲から推されて918に王位に就き、高麗を建国、開城を都とした。935年に新羅を滅ぼし、936年には百済の残存勢力を平定して朝鮮半島を統一した。

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 開城は1945年以降、北朝鮮統治下にある。板門店の北8㎞にあり、南北共同の工業団地「開城工業地区」が2004年から運営されていた。しかし、長距離ミサイル発射・核開発を受けて南北関係が悪化し、2016年に韓国側に閉鎖措置にとられため、同地区で韓国企業による工業生産は停止している。

 高麗は高句麗の再興という意識からつけられた国号で、かつて日本では高句麗とともに高麗を〈こま〉と呼んだ。英語のKoreaは高麗の朝鮮語音コリョのなまったものである。

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 初期の高麗は豪族の連合政権としての性格が強かったが、10世紀末頃の成宗時代には政治の基礎も固まった。しかし、固定し貴族化した官人層は互いに派閥を形成し、反乱が相次いだ。この間に外には契丹や女真の圧力が加わり、特に契丹軍は一時王都を陥落させたこともある。こうした内外の政情は次第に武人の勢力を高め、なかでも崔【さい】氏一族は国王の権威をしのぐほどの有力者になった。王氏政権が武人崔氏によって左右されていた頃、侵入したのがモンゴル軍であった。

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 崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移した。モンゴル軍が海戦には不向きと判断したためである。しかし、3年間も徹底抗戦を行ったため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃してしまう。

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 1247年の第4次侵攻を皮切りにモンゴル軍の侵入は毎年継続して行われた。高麗は徹底交戦をしたものの、結局、1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏した。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、高麗はモンゴルの属国となった。1269年、元宗は江華島を退去して開城に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権も終了した。

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 しかし江華島からの退去に従わない武人は、1270年に新たに珍島を本拠地に抵抗を続けた。三別抄【さんべっしょう】の乱である。別抄とは臨時編制の精鋭部隊のことで、崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながら脱出してきたものを集めて編成した神義軍をあわせて三別抄と呼んだ。

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 モンゴルは高麗政府軍と連合して1年にわたる猛攻により、1271年に珍島を陥落させたが、三別抄の残党はなおも南の済州島に移ってさらに抵抗した。

 三別抄は日本にも救援を要請したが、鎌倉幕府は事情を理解できず、協力することはなかった。反乱は1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、済州島が陥落し、あしかけ4年にわたった反乱は収束する。そしてその翌年、元は同じく漢軍・高麗軍を動員して、最初の日本遠征を実行した。

 三別抄の乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。神風だけで日本が助かったわけじゃない。

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  高麗では、仏教が護国の宗教として厚く保護され、歴代の国王も深く帰依して各地に寺院を建立し、仏教は隆盛をきわめた。写真は高麗版大蔵経だ。大蔵経とは一切経とも言われ、経(ブッダの教え)、律(僧侶の生活規範)、論(経の注釈書)の「三蔵」と解説書などをすべて含む仏教典籍の総称である。

 高麗版大蔵経は第8代顕宗の時代に着手され、60数年を経て第13代宣宗の1087年に完成した。ところがその版木は、1232年のモンゴル軍侵攻の際にすべて焼失してしまった。

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 そこで、崔氏政権が1236年に着手し、16年がかりで高宗時代の1251年に完成させたのが、世界遺産になっている高麗版大蔵経で、現在は海印寺の大蔵経経板閣に保管されている。

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 坊さんが手に持っているのが高麗版大蔵経で、縦が約24cm・横が約70cm・厚さが約4cmの白樺でできた版木で、なんとこれが81,258枚もある。そのため、八萬大蔵経とも呼ばれている。

 モンゴルの第3次侵攻により国土と国民が蹂躙され、荒廃した大変な時期に、なぜ版木の復元を行ったのだろうか?それは国家滅亡という最大の国難を前にし、ブッダの力を借りてモンゴル軍を撤退させようとしたからなんだ。最初の刊行の時には60数年もかかっているのに、戦時中でありながらたった16年で彫り上げたパワーには驚かされるが、残念ながらブッダの加護は得られなかった。

※王建の肖像は韓国テレビドラマ『太祖王建』から拝借しました。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/04/07 14:17 】

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