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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーアマルナ革命とツタンカーメンの謎

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 アメンホテプ4世はエジプト新王国第18王朝のファラオ(在位前1364年頃~1347年頃)である。アメンホテプ3世の子として10歳で即位したが、首都テーベの神官勢力が王権を凌ぐようなありさまであった。

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ラー

 古王国時代は首都メンフィスの守護神である太陽神ラーが盛んに信仰された。ファラオはラーの化身とされ、ラーを祀る祭殿として巨大なピラミッドが造営された。

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アメン(アモン)

 それが、中王国時代にテーベに首都が遷されると、テーベの地方神であったアメンが国家神として崇拝されるようになり、新王国時代にはアメンがラーと一体化して、アメン=ラー信仰(アモン=ラー)が起こった。

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カルナック神殿のアメン大神殿

 アメン神の加護は、遠征の勝利と史上空前の大帝国の建設をもたらした。ファラオたちはアメンのの恩恵に対する感謝のしるしとしてカルナック神殿へのさまざまな寄進と増改築を行った。その結果、急激に増大した宗教的権威と経済力を背景に、アメン神官団は国政に対する発言権を強め、王位継承をも左右する力を持つようになって行った。このようなアメン神とその神官団の影響力に対して、王権に対抗する勢力と認識したファラオ側の反発が生まれていった。

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 ファラオと神官団の緊張関係が頂点に達しようとした時に即位したのがアメンホテプ4世であった。アメン神官団の存立基盤は国家神としてのアメンだから、これに代わる国家神を作り出せばいいということで、選ばれたのが太陽神アトン(アテン)だった。写真を見てお分かりの通り、もともとは夕日を神格化したものだった。太陽円盤から光が放射線状に出てるよね。アトン信仰を国民に強制し、他の神々の祭祀を停止し、偶像を破壊するなどしたため、多神教ではなく一神教の様相を呈するにいたった。当時、ヘブライ人はエジプトにいたので、アトン一神教をヒントにヤハウェ一神教が生まれた可能性がある。

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 そうすると、アメンホテプの名前がまずい。なにしろ、「アメンが満足する」と意味だからね。そこで、自らの名をイクナートン(「アトンにとって有用な者」の意味)に変更した。都も神官団の拠点であるテーベからアケート・アトン(「アトンの地平線」の意味)に遷した。日本でも寺院勢力が強くなったことから、平城京から平安京に遷都しているけど、それと同じことをやろうとしたわけだ。

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王妃ネフェルティティ

 前1364年の冬、イクナートンは王妃ネフェルティティ、長女メリトアテン以下、廷臣たちを従え、新都建設予定地を訪問、建築工事起工の儀式を行った。都にはアトン神の神殿とともに、王宮、王墓、中央官庁街が2年ほどで建設された。現在この地はテル=エル=アマルナと呼ばれている。

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 しかし、イクナートンの死後、その改革が否定されると、この都は王一代で終わり、次の王朝によって破壊され、現在は遺跡が残るのみとなっている。

 アトン信仰は自然神でありながら、愛によって人々を救済するという、普遍的な宗教であり、エジプトと西アジアという異なる民族と文明を内包する地域を支配する専制君主に適した新しい宗教として創り出された。イクナートンはその信仰に基づき、独自の美術表現を推奨し、それはアマルナ美術と言われた。アマルナ美術は写実性を特徴としており、さっきのネフェルティティ像がその代表とされる。

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 イクナートンの死後、僅か9歳で即位したのがトゥトアンクアトン(「アトンの生ける像」の意味)であった。えっ、これ「ツタンカーメンの黄金のマスク」じゃないの?って。そう、ツタンカーメンなんだけど、即位したときは、ツタンカートンだったんだ。即位後まもなく、摂政のアイや将軍ホルエムハブなど側近の意向によってか、名前をトゥトアンクアメン(「アメンの生ける像」の意味)に変えさせられ、都をメンフィスに戻し、アメン神信仰を復活させ、アメン神官団も復職させ、アマルナ革命が挫折してしまった。トゥトアンクアメンを何度も早口で言ってごらん。ほうら、ツタンカーメンになったでしょ。

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 写真はツタンカーメンの玉座に施されたレリーフで、王妃が王に香油を塗ってあげている仲睦まじい様子を表したものだ。ところで、2人の足元をよく見ると、2人とも片方しかサンダルを履いていない。これは「仲のよい2人が1足のサンダルを片方ずつ履く」という当時のエジプトの習慣なんだってさ。

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 写真のツタンカーメンは杖を突いてるけど、彼は身体が弱かったようだ。ファラオは神だから、人間とは結婚出来ない。そのため、近親結婚が行われていた。ツタンカーメンは近親結婚が原因の数々の遺伝的疾患に苦しめられたことが最近の研究で分かってきている。

 彼は左足に先天性内反足の変形を患い、右足も極端な偏平足だったとみられているそうだ。足の変形に加えて無血管性骨壊死といい、徐々に骨が損なわれていく恐ろしい病気にも罹患していたことが最近の研究で分かって来た。その上、マラリアにも罹患していたと考えられるそうだ。

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 ツタンカーメンは世継ぎにも健康にも恵まれないまま僅か18歳でこの世を去った。彼と彼の実の妹でもあった妃との間に授かった2人の娘たちは死産。ツタンカーメンの家系は途絶え、歴史からも抹消されてしまう。

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王家の谷

 ところが、1922年11月、テーベの近くの「王家の谷」といわれるエジプト新王国のファラオたちの王墓が集中している一角で、全く未知の王墓が発見された。それは王墓の中でも小規模なものであったので、盗掘を免れていた唯一の王墓であった。出土したミイラの名札からそれがツタンカーメン王のものであることがわかった。その墓室からはほとんど埋葬時そのままの王のミイラ、それを覆う黄金のマスク、王の玉座、さまざまな装飾品、武器など、5,398点にのぼる副葬品が見つかり、世紀の大発見と言われた。

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 発掘に成功したのは、ハワード=カーターというイギリス人であった。彼はカーナヴォン卿というスポンサーの出資によって16年前からエジプトで発掘に従事していたのだった。ところで、エジプトには、ファラオの墓を暴いた者は呪われるという言い伝えがあった。このツタンカーメン王の発掘でもスポンサーのカーナヴォン卿が翌年4月に急死したほか、関係者が数年の間に相次いで死んだので「ファラオの呪い」ではないか、と話題になった。でも、カーター自身は1939年に病死してるんで、本当にファラオの呪いなんかあるんかね。

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 写真は戦車にまたがり、弓を引くツタンカーメンの姿だ。従来は病弱な少年王が戦場に出たとは考えられず、この絵はツタンカーメンを美化するために描かれたものだとされてきた。しかし、この通説をくつがえすかもしれない発見があった。それはツタンカーメンの墓が発見された当時から埋葬品のひとつとして収容されたものの、今まで研究対象になっていなかった革製の鎧だ。

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 詳細な調査の結果、鎧には着用による劣化が確認され、当時10代だったツタンカーメンが鎧をまとって戦に出ていた可能性も見えてきた。幾重の疾患を抱えながらなお戦場に出たツタンカーメンが戦車から転落して死亡したとする説も信憑性を帯びてくる。今後の研究成果に大いに期待したいところだ。
 
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/04/24 10:08 】

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