FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー古代オリエント最大の戦い・カデシュの戦い

Hattusa_temple1_convert_20190129095810.jpg 
ボアズキョイ遺跡

 ヒッタイト人は古代オリエント世界に登場する最古の印欧語族である。その故郷は不明であるが、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きの一つとしてアナトリア中部に移住したようだ。

hattusa_convert_20190129100244.jpg 
ハットゥシャシュの獅子門

 前1680年頃、ハットゥシリ1世がハットゥシャシュ(現在のボアズキョイ)を首都として王国を建設した。1905年から翌年にかけて、ヴィンクラーが率いるドイツの調査隊がトルコの首都アンカラの東のボアズキョイを発掘。巨大な建造物の遺構とともに大量の粘土板文書も発見された。それを解読することによって、この遺跡がヒッタイトの都、ハットゥシャシュであること判明したのだが、詳しいことは後でお話する。

CcrH-6RUMAIMZiB_convert_20190129095540.jpg 

 ヒッタイトは世界史上初めて鉄を生産した民族としてその名を知られているが、1938年にトルコのアランジャホユックの遺跡から黄金で装飾された鉄剣が発見され、この定説が覆された。材料は「隕鉄」つまり隕石だと考えられるが、前2300年頃のもので、ヒッタイト人がアナトリアに入植する以前のことである。世界最古の鉄を製造したのはハッティ人だった。

 ハッティ人は『旧約聖書』のヘテ人をもとにイギリスのアッシリア学者が命名したものだが、ヒッタイト人以前にこの地に住んでいた人々を指し、彼らは印欧語ではない言葉を使っていたようだ。ヒッタイト人はこのハッティ人の製鉄技術を受け継いで、前1200年頃に「海の民」に滅ぼされるまで、これを独占した。

7cb7705b4f9335ce9ed485543d5201c6.jpg 
 

 前1595年にムルシリ1世がバビロン第1王朝を征服、西アジアに鉄器をもたらした。ヒッタイトの強大な軍事力の原動力となったのが鉄製の剣と戦車だった。

c0067690_13362788_convert_20190124140808.jpg

 写真は前にもお話ししたシュメール人の戦車だ。シュメール人の戦車は2枚の板を接合した車輪を用いた4輪戦車で、4頭のロバの一種が引いていた。これだと、儀式の行進に使われる程度で実戦にはむかない。

Assyria-wagon.jpg

 それに対してヒッタイトの戦車はというと、写真を見てお分かりの通り、6本スポークの車輪を使用し、2頭立ての馬に引かせた軽快な2輪戦車だった。この馬と戦車がヒクソスによりエジプトにもたらされた。後に、ミタンニから独立したアッシリアは、スキタイ人など遊牧民から騎馬先述を取り入れて軍事大国となり、前7世紀に初の「世界帝国」を形成することになる。

kadesh2_convert_20190129095620.jpg  

 ヒッタイトは前1286年にシリアに進出したエジプト新王国とシリアのカデシュで激突した。古代オリエント最大の戦いであるカデシュの戦いである。

img_2.jpg 
アブ=シンベル神殿のラメセス2世像

 カデシュはエジプトとヒッタイトの勢力圏のちょうど中間に位置し、東地中海世界の交易の要衝であった。当時のエジプトのファラオはラメセス2世、これを迎え撃ったヒッタイト王はムワタリだった。
 
 エジプト軍は50人で編成された小隊を基本に、5小隊で中隊、20中隊つまり5000人で1師団が組織され、ラメセス軍は4師団、総計2万の編成であった。ラメセス2世は直属師団を率い、捕虜の偽情報をつかまされてカデシュの北に進出した。東側から現れたヒッタイトの戦車隊2,500両がエジプトの後続師団を急襲、エジプト軍は混乱に陥った。しかし、海岸部からの援軍が駆けつけ、なんとか危機を切り抜けた。

b6540851_convert_20190129095337.jpg 
戦車に乗り弓を引くラメセス2世

 
この勝利をアメンの加護として、ラメセス2世はアブ=シンベル神殿を含む5つの神殿の壁面に詳細な碑文を残した。また、神殿の壁画には巨大なラメセス2世が敵を討つ姿が描かれた。

800px-RAMmummy_convert_20190129095308.jpg 
ラメセス2世のミイラ

 ラメセス2世の誇張にもかかわらず、現代の評価では戦争の結果は引き分け程度であったとされている。ヒッタイト側は王子を含む多数が戦死し、カデシュから撤退したが、エジプト側もカデシュを取り戻すことはできなかった。戦闘後、実質的にカデシュを管理下に置いたのはヒッタイトの方であった。

 前1269年、ラメセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で、シリア・パレスティナとそこを通る交易ルートの支配権を分割保有することに同意する公式の平和条約が締結されたが、これが世界史上初の平和条約である。

3c49e62a26f7757498eae440427b8309_convert_20190129122653.jpg 

 1887年、前回お話したテル=エル=アマルナで、地元民が楔形文字の刻まれた多数の粘土板を偶然発見した。発見当初は価値の無いもの、あるいは偽物ではないかと思われていたが、大英博物館のW=バッジが購入、彼の卓見によって後に古代オリエント史上最高の資料の一つであることが分かった。「アマルナ文書」である。

 平和条約の内容はカルナック神殿の壁面に彫り込まれているが、「アマルナ文書」の中にもハッティ国とエジプト新王国の間で交わされた書簡が見つかり、長い間忘れられていたヒッタイトの存在が朧気ながら浮かび上がった。

20140922_1319416_convert_20190129134837.jpg  
世界最古の平和条約

 ボアズキョイを発掘したのはヴィンクラーだったよね。アッカド語で書かれた1枚の粘土板を読み始めた彼は、一瞬、我を忘れてしまう。なんと、粘土板文書は世界最古の平和条約に関するものだった。ヴィンクラーはその条約文が、「アマルナ文書」やエジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一であることを発見、ここに幻のヒッタイト帝国が甦ったのである。

 ちなみに、ラメセス2世には100人の子供がいて、90歳で死んだんだってさ。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/04/28 05:35 】

オリエント古代史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドー出エジプト・モーセ | ホーム | 世界史のミラクルワールドーアマルナ革命とツタンカーメンの謎 >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |