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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー元祖スパルタ教育

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 ギリシアのポリスと言えば、すぐに思い浮かぶのがアテネとスパルタだろう。アテネはイオニア人のポリスで歴史が古いのに対して、スパルタを建設したのはドーリア人でギリシアでは新参者だ。ドーリア人は前12世紀にピンドス山あたりから移動して南下し、先住アカイア人を征服して
ペロポネソス半島一帯を占拠した。

 エウロタス河畔に4つの集落を建設して定住したドーリア人が近隣のアカイア人を支配下におさめ、さらにアカイア人の最大拠点アミクライを攻略して第5の集落として併合し、前8世紀半ばに5つの集落でスパルタは成立した。

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 ラコニア全体を征服したスパルタは、さらに重装歩兵の密集部隊戦術を採用してメッセニアへの侵略を果たし、ギリシア世界の中でいち早く大国化を実現させた。この征服過程で、自分たち以外のドーリア人やアカイア人の一部をペリオイコイ(周辺の民という意味)という商業に従事する身分にし、他をヘイロータイと呼ばれる農業奴隷とした。ペリオイコイは自由身分ではあったが、参政権は認められていなかった。しかし、スパルタの国名は正式にはラケダイモンといい、ラコニアのペリオイコイはラケダイモンの成員とみなされ、いざ戦争となれば従軍義務があった。

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 スパルタに征服されたメッセニア人のほとんどはヘイロータイとなり、スパルタに強い敵意を抱いていたが、その人口は14~20万人で完全市民(スパルティアイタイ)の10倍を超えていた。もしヘイロータイが一致団結して反乱を起こしたならば、それは国家崩壊につながりかねない。スパルタ人はヘイロータイが反乱を起こさないように警戒態勢の強固な国家を作り上げた。それがリュクルゴス体制と呼ばれる国制であり、リュクルゴスが作り上げたとされているが、なかば神話的な人物であって実在は疑わしい。

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 メッセニアを征服したスパルタは、その土地をスパルタ市民に分配し、すべての市民が土地所有者となった。土地はヘイロータイが耕作したから、市民は農業労働から解放されて軍事に専念することがことが可能だった。市民には相互に貧富の差があるにはあったが、政治的平等を実現し、互いにホモイオイ(同等者)と認め合ってポリスの運営にあたることになった。互いに同等の者であるならば、集団生活も共同の軍事訓練も秩序をもって維持していける。これがリュクルゴス体制を支える基本的条件である。

 しかし、経済活動の活発化により貧富の差が拡大していけば、相互の関係の均衡は崩れてしまう。そこで、経済を停滞させて秩序の維持をはかるために、金銀の貨幣を廃止し、鉄の貨幣のみを使用し、また外国から魅力的な物資が入ってきて経済を刺激しないよう、また、欲望をかきたてないよう、鎖国政策がとられた。

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 そして、強靱な戦士を育てるために行われたのが、いわゆる「スパルタ教育」であった。野球の鬼である星一徹はわが子・飛雄馬をスパルタ教育で育て上げ、飛雄馬はまさに「巨人の星」となったが、元祖スパルタ教育はあんなもんじゃなかった。

 スパルタではまず、親は自分の子供を自由に育てる権利を持っていなかった。「子供は都市国家スパルタのもの」とされ、生まれた子供はすぐに長老の元に連れて行かれた。そこで「健康でしっかりした子」と判定されれば、育てる事が許される。病身でひ弱な子供は、ターユゲトンのもとにあるアポテタイの淵に投げ捨てられた。

 男の子は7歳になると親もとを離れて集団生活に入る。大人の監督と指導のもとに、年齢別の集団養育を受け、年齢を超えて編成された集団での共同生活を続けた。その集団生活においては、肉体的にも精神的にも苦難に耐える優秀な戦士を養成するための共同訓練が日々続けられた。子供たちは互いにいじめや挑発し合ったり、喧嘩したりするよう推奨される。子供たちの間で口論が起きようものなら、監督官は拳で決着をつけるよう促した。

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 読み書きは生活するうえで最小限必要な程度に教えられるが、その他の学問は必要ない。兎に角、体育訓練と軍事訓練の毎日である。年齢とともに訓練の厳しさは増し、少年たちは髪の毛を剃り、裸足で歩き、裸で遊ぶことに慣れていった。12歳にもなれば下着なしで生活し、1年に1枚の上着が支給されるだけで、沐浴も禁止された。食事も生きる上で最低限の量しか与えられなかった。屈強な肉体を作るためなら鱈腹食わせれば良さそうなものだが、食べ過ぎれば太るし、欠乏状態を経験しておけば、戦時におけるいかなる状況にも耐えることが出来る、と考えた。また、腹が減って耐えられなければ盗んで食うことが奨励された。勿論見つかればひどい鞭打ちを食らうが、盗む訓練は戦闘訓練になると考えられていた。

 20歳になると一人前の兵士として軍隊に編入され、60歳に兵役は解除された。しかし、集団の生活は30歳になるまで続いた。スパルタの成年男子は20歳を過ぎて間もない頃には結婚したが、結婚後も30歳までは集団生活を続けなければならない。夜間にこっそりと自宅へ戻り、妻と短い時間を過ごし、子供をつくった。

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 また、スパルタでは色白の肌と肥満は禁じられていた。それは鍛錬を怠った男子の証拠とされたからだ。成人男子は必ず10日に一度、衆人環視の中で、監督官の前に裸をさらさなければならず、鍛練のあとがみられる頑丈な体であれば表彰され、怠惰のため脂肪がついて多少ともふくれあがっていたり、四肢のどこかに弛緩した軟弱な部分があった場合には、鞭で打たれて処罰された。

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 30歳になったら自宅での生活が許されるが、一家団欒で夕食という訳にはいかなかった。市民は毎日の夕食を、1グループ15人位が各自食糧をもちよって共同でとった。市民間の連帯感や仲間意識を維持するためであったが、貧しい者には食糧の持参は大きな負担だった。でも、食糧を用意できない場合は市民資格を失ってしまったそうだ。

 こうして訓練されたスパルタの軍隊は、個々人が戦闘能力に秀でているだけでなく、団結力においてもギリシア最強を誇ったのである。だから、スパルタは城壁は必要ないとして造ることはなかった。

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 強靱な戦士をつくるためには、まず丈夫な子を産まなければならない。そのため、「強い子供を産める母体の育成」が必要であり、女性も男性同様に幼少期から厳しい体育訓練を受けた。15歳位になると親が決めた30歳位の男性と結婚させられたが、戦死することが多かったスパルタでは、兄弟で一人の女性を妻に迎えたと伝えられる。

 女性の場合、戦争に赴くことはなかった。しかし出産で死んだ女性には、戦死者と同じ敬意が払われ、墓石が与えられた。スパルタ人にとって、その女性は新しい戦士を生み出すために戦い、惜しくも命を落としたのと同義だった。民主政の発達したアテネの女性の地位は低く、まさに「奥さん」で家庭の奥に籠もって一生を送ったの対し、スパルタの女性は自由で誇り高く生きていたのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/05/19 05:19 】

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