なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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マラトンの戦いから10年後の前480年、ペルシアは再びギリシア征服を試みた(第3回ペルシア戦争)。ダレイオスはすでに亡く、息子のクセルクセスがじきじきに遠征軍の指揮をとっての大事業であった。ヘロドトスの記述によれば歩兵170万、騎兵8万、戦車隊など2万に加え水軍51万7000以上(これは三段櫂船1207隻、その他の船舶・輸送船3000隻からなる)これらにヨーロッパ各地からの援軍を加えた総計は528万3000以上という大規模なものであったというが、これはもちろん誇張された数字で、実際には多くても20万程度と考えられる。
この遠征では陸海の大軍はエーゲ海の北岸沿いに進み、ギリシアへと侵入してきた。ギリシア側の最初の作戦では、北方から中部ギリシアへ入る際の関門であるテルモピレーでペルシア陸軍を撃退するのはスパルタを中心とするペロポネソス同盟軍であり、他方、ペルシア海軍はエウボイアのアルテミシオン沖でアテネを中心とするギリシア連合艦隊が撃退することになった。
テルモピレーでのスパルタ陸軍の勇敢にして悲壮な戦いぶりは、ヘロドトスの史書の白眉の一つと言える。
ペルシア軍の一部が間道を通って背後に回ったため、前後を挟み撃ちにされると覚ったギリシア軍兵士のあいだには、もはやこれまでと撤退しようという意見が出てきた。
レオニダス
スパルタ王レオニダスは、撤退を希望する者にはそれを勧め、自分と部下300人、それに彼らと運命をともにする決意をしたテスピアイ人がとどまり、ペルシア軍を迎え撃ったのである。兵士たちは槍が折れれば、刀で戦い、最後には短剣や素手で、さらには歯で噛みついて戦ったが、ついにペルシア軍の矢の攻撃のまえ、全員が討ち死にした。ペルシア軍の損失も大きく、クセルクセスの兄弟2人もこのときに戦死している。のちにスパルタ兵士のために戦場跡に立てられた墓碑に刻まれた碑銘を、ヘロドトスは引用している。
外【と】つ国の方よ、スパルタびとに伝えてほしい。おん身らの命に従いて、われらはここに討ち果てたと。
全員討ち死にしたため、戦死の報せを通りすがりの他国人に託さなければならない。そのようなスパルタ軍の壮烈な戦いぶりを、この碑銘は悲壮な響きをもって伝えている。
ペルシア陸軍がテルモピレーを突破したという報せは、アルテミシオンのギリシア海軍にその日のうちに到着した。陸上の防衛線が破られたならば、海上での防衛も意味がないということで、ギリシア連合艦隊もアルテミシオンを撤退し、ほぼ4日でサラミスへと戻った。
ペルシア戦争の趨勢を決定づけたサラミス海戦に先立ってこんな話が残っている。ギリシアの人は神託が大好きである。神託所はいくつかあったが、なかでもいちばん尊崇されたのは、デルフィのアポロン神の神託だった。ペルシアとの戦いに際しても、もちろん神託は行われ、アポロン神のお告げは、「木の砦で戦え!」と出た。「木の砦」とは一体何のことだ?昔、木の柵をめぐらしていたアクロポリスのことだという者もいた。
そうした中、前483年にラウレイオン銀山で新たな銀の鉱脈が発見された。アテネにとってこうした臨時の収入があった場合、市民に平等に分配することになっている。しかし、「木の砦」とは軍艦のことだと解釈したテミストクレスが、臨時収入でペルシアの来襲に備えて軍艦を建造することを提案し、多くのアテネ人の賛同を得て、この案は民会を通った。その結果、アテネの軍船は70隻から200隻に増加した。
さて、第1の防衛線を突破したペルシア軍はらくらくとボイオティアを南下し、9月にはアッティカに侵入した。アッティカではすでに住民はトロイゼンやサラミス島に疎開していたため、ペルシア軍は難なくアクロポリスまで到達し、そこを攻略した。アテナ女神の聖財を守るために籠城していた財務官と女性神官らは抵抗を試みたが、それも空しく、ついに落城。アクロポリスに保管されていた聖財や奉納品は掠奪され、諸神殿は炎上した。
テミストクレスは逆スパイをペルシア側に送り、ギリシア艦隊はペロポネソス方面へ逃げようとしているから、その前に、サラミス島の近くに集結しているところを一挙に襲うのがよいと、言わせた。これを聞いたクセルクセスは夜のうちに1000隻にも及ぶペルシア海軍に300隻からなるギリシア連合艦隊を包囲させた。
対決の場となったのは、アッティカ半島とサラミス島の間に横たわるサラミス水道の東西7キロ、南北2キロの狭い海域であった。ギリシア船に比べてペルシア船は大型であったが、これが狭い水道での戦いには不利になった。ギリシア船は体当たりで、敵艦の船腹に突っかけた。ペルシア船は大型のうえに多数なので、方向転換もうまく行かず、味方同士でぶつかり、沈没するものも多かった。まごまごしている船には、ギリシア船が舷【げん】を近づけ、そこから兵士が飛びこんで、斬りこんだ。そのうえ、午後には西風が強く吹きはじめ、嵐になり、ペルシア艦隊はますます混乱した。外海に逃れ出ようとするペルシア船を、ギリシア船は追い、海戦の勝敗は夕方までに決まってしまった。
ペルシア海軍は翌日に撤退を開始、クセルクセスも帰国の途についた。翌年には、プラタイアの平野でペルシア軍とギリシア連合陸軍が対決し、ギリシア側が辛うじて勝利し、ペルシアとの戦争はほぼ帰趨が決し、ペルシア軍が再びギリシア本土に侵攻することはなかった。
サラミス海戦で活躍したギリシア船は三段櫂船【さんだんかいせん】(トリエレス)という。乗員200名中180名までが上下3段に設営された板に腰かけて、合図にあわせていっせいに櫂を漕いだ。高速のまま舳先【へさき】で敵船に体当たりして、沈没させる。漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民でも漕ぎ手として戦争に参加し、勝利を国にもたらすことができた。200隻の三段櫂船に必要な漕ぎ手は3万6000人であるが、それはアテネの市民全員が乗り込んでも欠員が出る数だった。アテネ居住のメトイコイ(在留外人)や他国からの応援で、全船が充当されたのであろう。
アテネ海軍は漕ぎ手である下層市民なくしては成り立たない。こうして下層市民の発言権が高まり、徹底的な民主政へと移行し、将軍ペリクレスの時代にその完成を見ることになったのである。
※画像の一部は映画「300」から拝借しました。
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