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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー神の子・アレクサンドロス大王②

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愛馬ブケファラスに乗るアレクサンドロス大王

 アレクサンドロスは暗殺された父の葬儀をアイガイで立派にすませて、王位継承者であることを周囲に明示した。20歳で王となったアレクサンドロス(正式にはアレクサンドロス3世)は、フィリッポスの死を契機に王国北部のトラキアやイリュリアに起こった反乱をまず鎮圧し、その間に反乱を起こしたギリシアに電撃的攻撃を加えて制圧。テーベを徹底的に破壊させ、その住人を見せしめとして奴隷として売り飛ばした。

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 この頃、アレクサンドロスがコリントスに訪れた際に、「樽のディオゲネス」とか「狂ったソクラテス」とか異名を持つディオゲネスと会っている。彼はソクラテスの孫弟子で、樽の中に住んでいた。ディオゲネスが挨拶に来なかったので、アレクサンドロスのほうから会いに行った。

 ディオゲネスはいつも通り日向ぼっこをしていた。アレクサンドロスが近寄り、「何か欲しいものはあるか?」と尋ねると、ディオゲネスは、「陽の光が当たらないから、そこをどいておくれ」と答えたそうな。これにはアレクサンドロスも苦笑い。帰る途中、お付きの者たちに、「私がもしアレクサンドロスではなかったら、ディオゲネスでありたい」と漏らしたそうでだ。

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 前334年、アレクサンドロスはマケドニア軍にギリシア諸国から送られてきた兵を加えてアジア遠征に出発した。父の遺志を継ぐ、という大義名分が彼にはあった。アレクサンドロスの東征につき従ったのは、1800名ちかい騎兵(ヘタイロイ)と3万の歩兵、それにギリシア諸国からの600の騎兵と7000の歩兵、加えてテッサリアから1800の騎兵部隊などであった。この大軍のための食糧と戦費は1カ月分にようやく届くかという程度に過ぎず、アレクサンドロスは占領地で物資を調達しようともくろんでいた。一方、本国マケドニアの留守を守るアンティパトロスには、守備兵として1万2000の歩兵と1500の騎兵が残された。

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グラニコス川の戦い

 
東征最初の本格的な戦いは、遠征軍が現在のダーダネルス海峡から小アジアに渡りグラニコス川に到達した時に始まった。アレクサンドロスはこの戦いで危機一髪のスリルを味わっている。彼を狙ってきた敵将2人の打ちおろした刀は、アレクサンドロスの兜を傷つけただけだった。彼の槍がこの敵の胸甲を貫いて胸倉深く刺さった瞬間に、もう一人の敵が後ろから太刀を振りかざした。友人のクレイトスがこの敵の手を刀ぐるみ肩から切り落とさなかったら、アジア遠征がこの先どうなったか分からない。

 アレクサンドロスが最も恐れたのは、ペルシア艦隊を率いていたロードス出身のメムノンがその策にもとづき、戦争をギリシア本土に移し後方攪乱を行うことだった。小アジア西岸の諸都市は概ねアレクサンドロスを解放者として迎えたが、前面の島々はメムノンの工作に動かされていた。ところが、ここにまた大きな幸運が降って湧いた。その知謀を最も警戒せねばならぬメムノンが前333年春病死し、ペルシア国王ダレイオス3世が三軍を叱咤することになったからである。

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1831年ポンペイ出土のモザイク画

 この年の秋、小アジアの内地を経てキリキアに出たところでアレクサンドロスとの会戦となった。イッソスの戦いである。この戦いにギリシア側の一翼は苦戦に陥ったが、4頭立ての戦車の中で指揮していた総大将ダレイオスがアレクサンドロスの突進に恐れをなして逃げ出し、これが勝敗を決定した。ポンペイの「ファウヌスの家」の床を飾るモザイク画は、ダレイオスに肉迫するアレクサンドロスを見事に描いている。
 

 ダレイオスは逃亡の際に巨額の財宝を置いていったばかりではなく、母や妃や二人の娘も置き去りにしたが、それは非常に貴重な捕虜となった。しかも、ダレイオスの妃は絶世の美人、娘たちもそれに似ていた。アレクサンドロスは僕と同じで酒で随分失敗をしているが、白面【しらふ】だと克己心の強い人だった。この時も悲嘆にくれる王族の婦人を丁重にいたわり、一指も触れなかったのはさすがであり、アレクサンドロスの寛大さと気位の高さを物語る行動である。

ダレイオスの家族

 実はこんな話が残っている。アレクサンドロスと友人のヘファイスティオンが連れ立って、捕えられたダレイオスの母親と妃の許を訪れている。その時、ダレイオスの母シシュガンビスは2人のどちらが王であるか見分けがつかず、より上背のあるヘファイスティオンの前に跪いてしまった。しかしアレクサンドロスは「お気になさるな。この男もまたアレクサンドロスなのだから」と笑って咎めなかったという。

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ヘファイステオン(映画『アレキサンダー』より)

 ヘファイスティオンは前324年、エクバタナで突如病に倒れ、7日ほどで病死している。この時、アレクサンドロスは非常に嘆き悲しみ、投薬を誤ったかどで医師を処刑し、3日間にわたって食事もとらず衣服も整えずにひきこもり、バビロンに1万タラントンを費やして巨大な火葬壇を築き、彼を神として祭るように命じたという。実はこの二人は「Greek love 」の関係、つまり同性愛関係にあったようだ。父親のフィリッポスもそうであったように、ギリシア世界ではごく普通に同性愛が行われていた。ただ、現代のゲイとは違い、女性と普通に結婚もし、子供ももうけている。

 話が逸れてしまったが、イッソスの大勝利の後、アレクサンドロスはダレイオスの申し出た和議を一蹴したが、すぐにペルシアの中心部には進まず、昔からペルシア海軍の主力を供していたフェニキアの征服にかかった。必死に抵抗したティルスに対し攻城の技術を総動員して7カ月かかってこれを降した後、前332年11月、何らの抵抗なしにエジプトに入った。

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アレクサンドリア

 ペルシア支配からの解放者として迎えられたアレクサンドロスは、エジプトの神々に生け贄を捧げて民心を把握し、ファラオの地位に即いた。そして、ナイルのデルタの西部海岸で、ナイルの土砂に煩わされぬうまい地点に目をつけて、都市アレクサンドリアの建設にとりかかった。アレクサンドリアは後にヘレニズム世界最大の都市となり、また、学芸を愛好したアレサンドロスに相応しく学問の都として名を馳せた。

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シヴァのアモン神殿
 彼が次に西方約400キロにあるシヴァ・オアシスにあるアモン神殿の神託を求めに行ったのは、直接には遠征に関係のない事だけに最も不可解である。というのは、その間は完全な沙漠で、行軍は困難なばかりか大きな危険も伴うものだったからである。このエジプト古来の太陽神は、ギリシア人のゼウスと考えられ、その神託はギリシア世界に早くから有名だった。

神託 


 鴉【からす】の群れに導かれて無事に目的地に着いた時、神託の予言者が彼を人々の前で「アモンの子」と呼びかけたことが、彼に自分を「ゼウスの子」で神の特別の加護を受けているという神秘的な信念を植えつけたと解されている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/06/02 05:00 】

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