FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー東の果てへ・アレクサンドロス大王③

Alexander_the_Great_mosaic_convert_20190515103323.jpg 
アレクサンドロス大王

 地中海岸の制圧を終えたアレクサンドロスは、前331年春いよいよ敵国の心臓部に向けて出発した。

繧「繝ォ繝吶Λ_convert_20190517102356  

 同年10月、ティグリス川の向こうのガウガメラ(アルベラ)でペルシア軍との大会戦となった。ダレイオスが率いるのは20数万の歩兵と騎兵、15頭の象、200台の鎌付き戦車という大軍であったが、激戦の後ダレイオスはまたも戦場から逃げ出し、ペルシアの敗北は決定的となった。アレクサンドロスは逃げるダレイオスを多数の馬を乗り継いで猛追跡したが、ついに取り逃がした。

繝舌ン繝ュ繝九い蜈・蝓酸convert_20190515104110 

 アレクサンドロスが象に乗って壮麗な古都バビロンに入城すると、市民たちは彼を王として迎え、これに応えてアレクサンドロスはバビロンの神々へ参拝した。また、バビロンの地方長官であったマザイオスをその地位にとどまらせ、他にもペルシア人を重要な行政職に任命した。これは従来の方針の転換であり、以後、アレクサンドロスは征服地の重要な地位をペルシア人に委ねるようになった。すでに征服者ではなくアジアの王としての自覚を彼がもったということだろう。

worldheritage19_2_20120828232118_convert_20190517110259.jpg 
ペルセポリス

 アレクサンドロスはさらに進軍し、スサを占領して歴代のペルシア王の財宝貯蔵庫を接収し、財政的不安から解放された。ついでペルセポリスに入城し、ここでも莫大な財宝を獲得した後で、宮殿を焼き払った。前480年にクセルクセスによりアテネが焼かれたことへの報復だったと言われている。

Alexander_inspects_the_corpse_of_Darius_convert_20190517115540.jpg    

 アレクサンドロスはダレイオスを追ってエクバタナからバクトリアへと進み、そこで出会ったのが、バクトリアの地方長官ベッソスに裏切られ、殺されかけて虫の息のダレイオスだった。自分の腕の中で息を引き取ったダレイオスの遺体を丁重に埋葬したアレクサンドロスは、ベッソスに王位簒奪者の汚名を着せ、自分自身は王の後継者を名乗ることができた。どこまでも運の強いことである。

bc300-alex@824-w_convert_20190515103415.png 

 アレクサンドロスは旧ペルシア帝国の東の辺境であるバクトリアとソグディアナの平定に3年の歳月を費やさねばならなかった。堂々の会戦と違いゲリラ風に抵抗するイラン人にはすこぶる悩まされたが、兵の装備を軽くしたり、小部隊に編成替えをしたりして、ついにこれを征服した。その間、交通の要衝に鎮撫の目的でアレクサンドリアの名の都市をしばしば建設しており、その中には今日まで繁栄しているものがある。

ロクサネ 

 ソグディアナの平定後、アレクサンドロスは帰順したこの地方の有力者オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。アレクサンドロスがバビロンで死去した後、ロクサネは彼の子を産み、アレクサンドロス4世と名づけられた。二人はマケドニアで大王の母オリュンピアスに保護されたが、そのオリュンピアスが暗殺され、その後二人はカッサンドロスにより殺害される。アレクサンドロス4世は14歳であった。カッサンドロスはアレクサンドロスの遺族をほぼ根絶やしにして王位を奪っており、大王を暗殺した疑いももたれているが、確たる証拠はない。

 これまでの全行程を合計したら1万キロをはるかに超えているであろう。それに比べれば、ヒンドゥークシュ山脈からインドまでの距離は物の数ではない。インドはヘロドトスの『歴史』の中にも、砂金に富む地域で珍しい動植物の世界として誌されている。アレクサンドロスが軍の進路を東に向けたのはしごく当然であった。

繝昴Ο繧ケ_convert_20190517102243
ヒュダスペス河畔の戦い

 その頃のインド西北部は政治的な統一がなく、アレクサンドロスはそれを利用して有力な王と同盟関係を結んでから、前327年にパンジャーブ地方に軍を進め、タキシラの町に入った。タキシラは後に仏教の一大中心地となり、現在ダマルラージカ・ストゥーパやジョーリヤン遺跡が残っている。

繧、繝ウ繝峨・謌ヲ雎。_convert_20190517102216 

 翌前326年、有力な王ポロスとインダス川の一分流ヒュダスペス川の畔で一大会戦となった。ポロスの軍にはおびただしい象が配置されていたが、アレクサンドロスは巧みな機動作戦でこの新しい兵器に打ち勝った。象はこのように必ずしも強力な戦闘力とはならなかったが、新しい兵器としてヘレニズム時代には地中海方面でもしばしば戦場に姿を現した。

india0903-1565_convert_20190519090848.jpg 
ガンジス川

 ここでアレクサンドロスは土民から東方にガンジスという大河があって大海に注いでいることを知った。当時のギリシア人の知識では旧大陸を実際よりもはるかに小さく考え、その周りを大洋が取り囲んでいるとしていた。してみれば、アジア大陸の東の果てまでは今一息なのだ。全世界の征服者という比類ない名誉が手の届くところにあるのだ。こう考えてアレクサンドロスは軍隊に東進を命じたが、インドの長期の豪雨な中を行軍して疲労しきった軍は初めて反対の意志を表明した。

 今や大軍の兵士は進軍途中で調達されたさまざまな民族の出身者で、出発地のギリシアから約2万キロの行程をアレクサンドロスに付き従ってきた兵士は、わかず334名になっていた。途中で戦死したり病死したりした者、置き去りにされた者はどれほどいたことか。兵士たちの望郷の思いはつのるばかりである。愛馬ブケファラスも老衰で死んだ。

 アレクサンドロスは譲歩を決意した。前326年の秋だった。帰路の行軍も困難をきわめ、数千もの兵士が命を落とした。スサに全軍が辿り着いたのは前324年の5月、前331年にバビロンを出てから8年の歳月が流れていた。

髮・屮邨仙ゥ壼シ柔convert_20190517102311 

 スサでアレクサンドロスはダレイオスの娘スタテイラと結婚し、同時に側近のマケドニア貴族たち80名もペルシアの高貴な女性たちと、将兵1万人もそれぞれペルシア女性と結ばれ、合同の結婚式が行われた。このような集団の結婚は、マケドニアの貴族とペルシア貴族が協調してこそ帝国の支配は維持される、とアレサンドロスが考えた結果だった。スタテイラはアレサンドロスの子ヘラクレスを産んでいるが、アレクサンドロス4世と同じく、カッサンドロスにより殺害されている。

img_1_m_convert_20190517102144.jpg 

 アレクサンドロスは、次にはアラビア遠征を計画し、その準備を進めながら、帝国内の行政組織の整備にも謀殺された。祭りなどさまざまな行事にも出席しなければならない。前324年秋には親友ヘファイステオンが急死し、翌年春にはギリシアで反乱に向けて不穏な動きが生じていた。

 そんな時にアレクサンドロスは急に熱病に襲われた。だいぶ続け様に酒を飲んだあとのととであるが、宮廷日誌に基づく伝承は、神となった世界の征服者が10日ばかりの熱病で、苦しみながら弱っていった様を細かく伝えている。それでも目前の大計画やその他政務について病床から指図していた。マケドニア兵たちが側近の制するのを聞かずに病室に入って寝台のわきを列を作って通った時、頷いて見せたのがアレクサンドロスの最期であった。前323年6月13日のことであった。敵の刃にはあれほど運の強かった幸運児も、恐らく1匹のマラリア蚊のために32歳の若さで斃れたのであった。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/06/05 05:08 】

ヨーロッパ古代史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドー大図書館と大灯台・アレクサンドリア | ホーム | 世界史のミラクルワールドー神の子・アレクサンドロス大王② >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |