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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー大図書館と大灯台・アレクサンドリア

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 アレクサンドリアはエジプト第2の都市で、エジプト第1の商港でもある。アレクサンドリアは「アレクサンドロスの都」の意味で、アラビア語の文語では地図にある通りアルイスカンダリーヤになる。「イスカンダルの町」ということなのだが、イスカンダルと言えばご存じ宇宙戦艦ヤマトにに登場する架空の惑星の名前だ。実は、アレクサンドロス大王をペルシア語・アラビア語で呼ぶとイスカンダルになる。

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 そのアレクサンドロス大王が前332年エジプト征服後、ナイル川デルタの西端、ラコティスの漁村近く、北にファロス島をひかえ、南にマレオティス湖を湛えた地を選び、建築家のディノクラテスに命じて都市を建設したのが、この都市の始まりである。大王は将来この都市を世界貿易の中心にしようとし、死後、彼の遺体はこの地に葬られた。

 アレクサンドリアは大王の意図に違わず、やがて「世界の結び目」として、地中海世界とアラビア、インド貿易の中心地となり、数世紀にわたり、「人の住む世界最大の貨物集散地としての地位を確保し、「アレクサンドリアにないものは雪だけ」と言われたほどだ。最盛期の人口は50万とも、100万とも言われている。

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プトレマイオス1世

 アレクサンドロスの死後にエジプトの地方長官となったプトレマイオス1世は、前305年から王の称号をもってエジプトに君臨した。プトレマイオス朝の始まりである。大王の幼なじみで、ともにアリストテレスに教育を受け、アレクサンドロスの伝記を著す文人でもあった、あのプトレマイオスである。その末裔が有名なクレオパトラであり、プトレマイオス朝最期の国王となったことは、皆さんご存じの通りだ。

 プトレマイオス1世はこの都市にムセイオンという研究施設を作り、天文台などを設けたため、アレクサンドリアはヘレニズム時代の自然科学、人文科学の中心地となった。ムセイオンは古代ギリシアで信仰された学術・芸術の女神ムーサイの祀堂であったものが、学堂として発展したものといわれ、英語で博物館、美術館を意味するミュージアムの語源となった。ムセイオンには地中海地域の各地から100人もの研究員が招かれ、ここで研究と討論に従事した。いかにもかつてアリストテレスから教えを受けたプトレマイオスらしい事業である。アレクサンドロスも長命であればしたかったことかも知れない。

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大図書館復元図

 プトレマイオス2世の建てた大図書館は蔵書数50万部ないし70万部と言われ、古代の図書館中最大なものの一つに数えられる。大図書館はムセイオンに付属し、プトレマイオス3世は、書物をもってアレクサンドリアを訪れた者は、原本を大図書館に寄託し、代わりに写本を受け取るように命じたところから、大図書館は別名を略奪文庫とも言われた。

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羊皮紙

 当時、小アジアのペルガモンにも、ユーメネス2世の造った立派な図書館があり、同図書館の司書のアリストファネスの争奪をめぐって、アレクサンドリア図書館を争いがあり、それが原因でペルガモンはエジプトから書写材料のパピルスをの供給を受けることが出来ず、その代用として羊皮紙が開発されたと言われている。名前の通り羊の皮を使うことが多いが、山羊・牛など多様な動物が使われる。英語でパーチメントと呼ぶのは高品質な羊皮紙を生産していたというペルガモンに由来している。

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大図書館跡

 前48~47年のアレクサンドリア戦役の折、ユリウス・カエサルの率いるローマ軍の戦火で焼失したが、その後、クレオパトラと熱き恋を燃やしたローマの将アントニウスが、ペルガモン図書館の蔵書を贈って再建させた。この図書館は640年、イスラーム教徒によるアレクサンドリア攻略の際に、再び壊滅に帰した。この時、正統カリフのウマルは「もし、図書館の蔵書がイスラーム教の聖典コーランの趣旨に反するならば、それは有害である。もし、コーランと同一であるならば必要である」と言って焼却を命じた。蔵書は市中4カ所の浴場で燃料としたが、全部を燃やすのに半年を要したという。
 
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新アレクサンドリア図書館

 それから1300年余り、2001年に新アレクサンドリア図書館として甦った。古代の学問の中心地であった当時の栄光を再現するとして、ユネスコとエジプト政府が世界中からコンペを募って共同で建設したものだ。11階建ての巨大な図書館で、壁には世界各国の文字が記されている。歴史上のアレクサンドリア図書館の最盛期より少ない蔵書数40万冊からの出発だが、最終的には800万冊の大図書館を目指しているという。

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アレクサンドリアにはフィロによって世界の七不思議の一つに選ばれた、高さ180メートルの大灯台が立っていた。この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建設を決定し、クニドスのソストラトスに建造を命じた。アレクサンドリアはヘプタスタディオンと呼ばれる1キロ余りの堤防でファロス島と繋がれていたが、そのファロス島の東端に、古代技術の精を尽くし、建立された。

 灯台は大部分大理石で造られ、上にゆくに従ってだんだん細くなるという様式ではなく、今日の摩天楼のような格好をし、頂部だけが丸くなっていた。頂上には大きな火桶があって絶えず燃やされていた。燃料が木材であったか、油類であったかははっきりしないが、ランプの後ろに強力な光を投射する巨大な反射鏡のあったことだけははっきりしている。これこそ灯台(ファロス)の原型であり、ヨーロッパでは今でも「ファロス」の語が灯台を意味する。

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 この灯台については色々の伝説が伝えられている。アラブ人は7世紀以後エジプトを征服したが、彼らの語るところによれば、燃える火が反射鏡で照らし出されると、43キロ先の海上のものを見ることが出来、晴れた日にはマルマラ海の向こう側にあるコンスタンティノープルの町の様子が反射鏡に映り、また日光を反射させると、160キロ先の船を焼くことが出来たという。これらにどれほどの信憑性があるか分からないが、ソストラトスがある種の強力な光を反射するレンズを考案したのは間違いなく、近代レンズの創意を先見したことは疑う余地がない。

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 ファロスの灯台はかなり長い間建っており、カエサルやクレオパトラらの船のために灯台の役目を果たしたに違いない。その歴史に終止符を打ったのはアラブ人の軽挙と貪欲に他ならなかった。

 エジプト人がアラブ人の手に移っても、ファロスの灯台は大事に保管され、海上交通の力強い助けとなっていたが、850年頃、コンスタンティノープルのビザンツ帝国とアッバース朝の間に戦争が始まった時、ファロスの灯台はイスラーム軍にとってはなはだ好都合だったが、キリスト教軍にはそれだけ不都合だった。そこでキリスト教徒側は当時アレクサンドリアを支配していたカリフに密使を送り、灯台の下には途方もない財宝が埋めてあるというデマを飛ばさせた。欲の深いカリフはまんまとこの罠にひっかかり、早速、部下に灯台の取り壊しを命じた。カリフが罠であることに気づいた時、灯台の大半は壊されてしまっていた。カリフは灯台の再建を命じたが、これはアラブ人の手に余る仕事だった。反射鏡をもとの場所に戻そうとしても、誤って地面に落として、壊してしまった。しかも新しく造る術を彼らは知らなかった。反射鏡のない灯台はイスラーム教のモスクとして利用するしかなかったのである。

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カーイト・ベイ要塞

 その後アレクサンドリアの町はカイロの建設とともにすっかりさびれ、灯台は下の部分だけが寂しく立っていたが、1375年にデルタ地帯を襲った大地震のために、完全に崩壊してしまった。1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用してカーイト・ベイ要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。それから忘却の時代が続き、ファロスは名ばかり残り、その遺跡は皆目分からなくなっていたが、20世紀の初め、ドイツの考古学者達がカーイト・ベイ要塞の近くで、灯台の所在の跡を確かめ、今日では一般にそこがアレクサンドリアのファロスの跡として認められている。

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  ところで、1994年に海底で偶然石材が発見された。これがきっかけとなり、1995年に海洋研究者と考古学者たちによって本格的な調査が開始され、その結果アレクサンドリアの海底からは巨大な石材や彫刻品の欠片と思われる品々が陸揚げされた。

 1996年には古代遺跡の跡も発見され現在も調査中であるが、プトレマイオス宮殿(クレオパトラが住んでいた)の可能性もあり、さら周辺には5000を超える古代エジプトの遺物が眠っていることがわかっている。今後の研究の成果が待ち望まれている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/06/09 05:16 】

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