なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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伝承によれば、カルタゴは前814年、フェニキア人の都市国家ティルスの王の妹エリッサ(アエネイスと愛し合った、あのディドーのこと)が建設したとされているが、確証はない。チュニス湾内の一角に建設されたこの都市は、「新しい都市」を意味するカルト・ハダシュトと呼ばれたが、ギリシア語風にはカルケドン、ラテン語風にはカルタゴと呼ぶ。
カルタゴは海に近い標高70mのビュルサの丘を中心に建設され、復元図にあるように円形の軍港を持ち、船舶の理想的な停泊地となっていた。
カルタゴはシチリア島とは一衣帯水、東西貿易の最も良い位置を占め、一路発展の道を進んだ。前6世紀の後半、ギリシア人の西地中海における植民活動を抑え、サルデーニャ島、コルシカ島、イベリア半島東南岸、それにアフリカ北岸の西半分を勢力圏に収めて多くの植民市を設け、「地中海の女王」と呼ばれるようになった。
ギリシア人が「ヘラクレスの柱」と呼んだジブラルタル海峡も、この頃は、通航を許されるのはフェニキア人だけという有様だった。この海峡のかなたにこそ最も有利な産物があった。錫は青銅の製造には無くてはならぬものだが、地中海岸には出ず、ブリタニア(今のイングランド)から得られる。アフリカの西海岸を南にくだると黄金や象牙が豊富だった。カルタゴはエトルリア人と結んでギリシア人を撃退したのであったが、エトルリア人は前5世紀以来衰退していったから、ローマ人がイタリアの経営に一生懸命である限り、貿易独占で繁栄を続けられた。
ローマとカルタゴは友好条約を結び、長いあいだ平和共存を確認し合って来たのだが、ついに刃を交えることになった。ポエニ戦争の始まりであるが、その戦いの場所はまさしく地中海の真ん中に位置するシチリア島であった。なお、ポエニはラテン語でフェニキア人のことである。
前264年、シチリア島の東北端にあるメッサナ(現在のメッシナ)の使節がローマにやって来て、ローマとの同盟を求めた。メッサナはギリシアの植民市であるが、この頃はマメルティニ(軍神マルスの子ら)と呼ばれたイタリア出身の傭兵どもの手にあった。彼らはシラクサの王ヒエロン2世が攻撃して来た時、カルタゴに来援を求めたが、気を変えてローマとの同盟、つまり援軍派遣を求めたのであった。
イタリア内部の外交、戦略にかけては自信満々の元老院も、これにはすこぶる当惑した。救援に起てば富強を誇るカルタゴの海上勢力との大戦争に発展する恐れがあるし、応じなければイタリアとは目と鼻の先の要衝にカルタゴの根拠地をつくらせることになる。元老院の意見がまとまらないまま、問題は民会に委ねられた。ここで、コンスルたちの「市民各自への大きな利益」をほのめかす演説によって、ついに援軍派遣が決定された。
このようにして、ローマもカルタゴも予測していなかった戦いが、4分の1世紀近くにわたって戦われた。シチリア島の戦いでは、ローマは島の南端のギリシア都市で、それまでカルタゴとの貿易により最も栄えたアクラガスを占領するのに成功したが、カルタゴの本拠を衝かないことには決定的な勝利は得られぬことがはっきりした。
それには海軍が必要なのだが、カルタゴは五段櫂船を120隻も備えているのに対し、ローマは言うに足る海軍はまだ持っていなかった。海戦の経験も絶無である。しかし、大砲の無い時代で、海戦は船と船のぶつけ合いか、時には乗組員同士の甲板での格闘が勝敗を決するのであったから、工夫の余地が無いではなかった。
急いで建造されたローマの軍船には前代未聞の装置が付いていた。先端をマストから綱で釣った一種の桟橋であり、その端には強力な鉄の鉤【かぎ】が付いている。この装置をコウルスと言った。コウルスはラテン語でカラスのことだ。カラスが餌を啄む姿に似ていることから、こう呼ばれた。敵船に近づいた時に綱を緩めて、この桟橋を敵船に打ち込み、乗組員を敵船に一挙に送り込もうというものであった。前260年シチリア島北岸で行われた海戦に、相手を侮って来たカルタゴ海軍はこの新型艦のために大敗を被り、農民の海軍は大いに自信をつけた。
勢いを得たローマはアフリカへ上陸するが、前255年にスパルタ人の傭兵隊長クサンティッポ率いるカルタゴ軍にチュニスの戦いで大敗し、さらに撤退の最中に海難事故にあい6万の兵を失なった。 前249年、カルタゴはハミルカル・バルカ将軍(ハンニバルの父)をシチリアに送った。ハミルカルは勝利を重ねほぼシチリア島全土の支配を獲得した。
こうして一進一退と言うよりも、完勝完敗の戦いが続き、両国とも長年の戦いに疲弊の色が濃かった。しかし、ローマ市民は私財を投げ出して200隻の艦隊を造ったのに対し、カルタゴはそれに対抗しうる海軍を用意していなかったため、シチリア島西端沖の海戦にカルタゴは完敗。ついにカルタゴは前241年に無条件降伏を申し入れ、第1ポエニ戦争が漸く終わった。 その結果、ローマはまずシチリア島の西部を中心として支配下に収め、前227年からは総督を置いて統治し、ローマ最初の属州とした。こうしてローマは大帝国への道を歩み始めたのであった。
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