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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーアルプスを越えた象軍団・ポエニ戦争②

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ハンニバル

 第1回ポエニ戦争でシチリア島の覇権をローマに割譲せざるを得なかったカルタゴは、さらに、傭兵隊の反乱による内紛のせいで、国力を弱めたためサルデーニャ島をもローマに譲り渡すことになる。

 カルタゴはある種の危機の時代に陥った。やがて傭兵隊の反乱を鎮圧した将軍ハミルカルは、バルカ一族を率いてイベリア半島の経営に乗り出す。この地は銀鉱に恵まれ、伝来の覇権地域の喪失分は新しく征服する内地の開発で十分に補うことが出来る。婿のハスドルバルと長子ハンニバルはハミルカルを助け、諸部族未統合の現地住民を撃破し征服してしまう。しかし、ハミルカルもハスドルバルも没する運命にあった。前221年、イベリア半島のカルタゴ軍を率いる将軍にハンニバルが選ばれる。このとき彼は弱冠25歳にすぎなかったが、すでに全軍が信頼を寄せる人物だったという。

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 イベリア半島におけるカルタゴ勢力の北限はエブロ川である。もともとローマは、イベリア半島におけるカルタゴの活動にはそれほど関心をいだいていたわけではない。しかし、旧来からローマとの親交の深かったマッシリア(現マルセイユ)らの要請もあって、エブロ条約が締結される。前220年、エブロ川の南の町サグントゥムで内紛が起こり、ローマに救援を求めた。ハンニバルが翌年これを囲んで陥落させたことにより、前218年春、ローマとカルタゴは再び戦火を交えることになった。カルタゴ内部には有力な親ローマ派があり、ローマ市民にも開戦には反対の声が強かったが、片方はハンニバル、片方は元老院の態度に引きずられて、古典古代の最も大規模な戦争が始まった。

 ハンニバルはアレクサンドロスに比肩する古今の名将と言われる。この戦いに、彼はきわめて大胆な戦略を立てて臨んだ。すでに海軍力ではローマが優勢だったから、海上からイタリアに攻め入ることは問題外だった。陸路北イタリアに侵入し、ローマが征服したばかりのケルト人を味方につけ、ローマの「同盟者」を「解放」するのが狙いだった。

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ローヌ川の戦い

 このため有名なアルプス超えの強行軍となった。ピレネー山脈を越えたハンニバルは、海岸線沿いに南フランスを進み、ローヌ川の戦いでローマ守備隊を破って渡河に成功、9月いよいよアルプス越えに挑んだ。

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 ハンニバルが率いるのは約40,000名の兵士と30頭の戦象だ。登りは土民が狙って落とす落石に悩まされ、下りは凍りついた万年雪にひどく苦しめられた。季節は10月の末であったが、もう雪が降り始めていた。なにしろ雪は生まれて初めてというアフリカ出身の兵士を大勢引き連れ、それに巨象までが急峻な岩道をよじ登ったというのだから、その苦労と損害は想像を絶する。それでも半月ほどで天下の嶮を通り抜け、2万6000の部下とともにポー川流域に着いた。30頭いた戦象の多くは谷底に転落するなどして、僅か3頭となっていた。

 この意表をついた途方もないアルプス越え作戦の成功は、世界史の中でいつまでも記憶されるに違いない。戦略の天才ハンニバルは、敵地イタリアを舞台とした最初の2年間、トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いなどとほとんど連戦連勝だった。トラシメヌス湖畔の戦いでハンニバルはコンスルのガイウス・フラミニウス指揮のローマ軍と戦ったが、この戦いでローマのコンスルとハンニバルとはアマとプロくらいの実力差のあることが実証された。ローマ軍は完全に包囲されて全滅し、フラミウスも陣没した。

 緒戦の大敗に、ローマでは、名門出のファビウス・マクシムスを独裁官(ディクタトル)に選んだ。彼はハンニバルと四つに組むことの愚かさを見抜いて決戦を避け、ただいつも彼の跡を離れないという作戦に出た。この作戦のために、彼は臆病者の渾名をつけられ、不人気のうちに任期を終えた。

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カンナエの戦い

 決戦を求める民衆の輿論により、元老院はファビウスの任期切れと同時に、ハンニバルとの決戦に挑んだ。前216年8月のカンナエの戦いであるが、この戦いはハンニバルの名を不朽のものにする。

 ローマ軍は重装歩兵5万5000、軽装兵1万5000、騎兵6000。これに対するカルタゴ軍は重装歩兵3万、軽装兵1万、騎兵1万。ハンニバル軍は歩兵能力に劣るとはいえ、両翼に配した優勢な騎兵力を大胆に駆使してローマ軍を包囲してしまう。気づいた時には、もはやローマ軍はなす術もなかった。ローマ兵の死者5万人以上、全軍は壊滅状態だった。この戦いは、完全包囲を成功させた最初の戦例であり、さらにまた自軍に倍する敵軍を包囲殲滅した稀有な戦例である。

 しかし、この大勝利もハンニバルの期待した、ローマの同盟市の大量の離反という結果を生まなかった。もちろん、南イタリアではカンパーニャのカプラ次にはタレントムゥのようにローマに背くものも出たが、ローマのイタリア統治の卓越はこの最大の危機にあって見事に証明された。ハンニバルは個々の戦いに勝ちながら戦略の基本線において大変な錯誤を犯したのであった。

 ローマ市民はこの大打撃に意気消沈するどころか、祖国愛に燃え従軍志願者が続出する。富裕市民もすすんで奴隷を兵役に差し出したという。かくして、前216年のうちにローマは敗戦前と同じ兵力を出すことが出来た。かつてピュルロスの使者はその王に、ローマ軍は一頭を切れば二頭を生ずるギリシア神話の大蛇(ヒュドラ)のようだと報告したというが、カンナエの大敗後はまさにこの比喩の通りさった。

 戦いはこの後15年も続いた。しかし勝負のヤマは、実は前216年で見えたのであり、これから後のハンニバルは次第にジリ貧になっていった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/06/19 05:24 】

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