なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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カンナエの戦い以後も、ハンニバルは南イタリア全域とカンパニア地方の中心都市カプアを占領する。カルタゴ本国とも連絡をとり、マケドニアおよびシラクサとも同盟関係を結び、地中海の東西にまたがる対ローマ包囲網を形成しようと画策する。しかし、前212年夏、ローマ軍はシラクサを占領する。このとき防衛兵器を考案してローマ軍を苦戦させた物理学者アルキメデスも、ローマ兵の刃に倒れた。
アルキメデスはシラクサの出身で、アレクサンドリアで学んだ自然科学者。あまりにも有名でその名を知らない人はいないだろう。アルキメデスにまつわる最も有名なエピソードといえば、「黄金の王冠」の話であろう。「アルキメデスの原理」とも言われる「浮体の原理」の発見である。
シラクサのヒエロン2世は、神殿に黄金の王冠を奉納するために、ある金細工師に必要な量の黄金を渡したという。出来上がった王冠は見事なものであったが、この王冠には、黄金が抜き取られ、その代わりに同重量の銀が混入されているとの噂が入ってきた。そこで、ヒエロン2世はその真偽を確かめるとともに、王冠を構成する金と銀との割合を見いだすよう、アルキメデスに依頼したのである。
アルキメデスはこの問題に思いをめぐらしているとき、たまたま浴場に行き、そこで浴槽つかったとき、その中に沈んだ自分の身体の体積だけ水が浴槽から溢れ出ることに気づき、問題解決のヒントを得たという。彼は喜びのあまり「ヘウレーカ!ヘウレーカ!(「わかった!わかった!」)」と叫びながら、裸のままで街を走って帰ったと言われている。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされてしまった。
シラクサのヒエロン2世は、神殿に黄金の王冠を奉納するために、ある金細工師に必要な量の黄金を渡したという。出来上がった王冠は見事なものであったが、この王冠には、黄金が抜き取られ、その代わりに同重量の銀が混入されているとの噂が入ってきた。そこで、ヒエロン2世はその真偽を確かめるとともに、王冠を構成する金と銀との割合を見いだすよう、アルキメデスに依頼したのである。
アルキメデスはこの問題に思いをめぐらしているとき、たまたま浴場に行き、そこで浴槽つかったとき、その中に沈んだ自分の身体の体積だけ水が浴槽から溢れ出ることに気づき、問題解決のヒントを得たという。彼は喜びのあまり「ヘウレーカ!ヘウレーカ!(「わかった!わかった!」)」と叫びながら、裸のままで街を走って帰ったと言われている。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされてしまった。
アルキメデスと言えばもう一つ、「てこの原理」の発見がある。「われに支点を与えよ、しからば地球を動かして見せよう」の言葉は有名だ。実は先ほど話したローマを悩ませた防御兵器というのは、このてこの原理を応用したもので、アルキメデスの鉤爪と呼ばれている。クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものだった。
シラクサを占領したローマのマルケッルス将軍はアルキメデスの評判を知っていたので、彼には危害を加えないように命令を出した。アルキメデスの家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは中庭で砂に描いた図形の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していたアルキメデスが無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したという。
「わしを殺す前に、おまえさん」とアルキメデスは嘆願した。「どうかこの円を描き終わらせてくれ。」兵士は待たなかった。アルキメデスは死ぬ間際にこう言った。「わしの体はくれてやる。だがわしの魂はわしのもんじゃ。」
スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)
話が本題から逸れてしまったけど、前211年にはローマ軍はカプアも陥落させ、もはや戦争の主導権はローマの手に移った。ハンニバルは応ずる術もなく、南イタリアを占領し続けるだけで、いたずらに時を過ごした。
この頃ローマの指導者層に、スキピオという名の若者が彗星のごとく登場する。軍人として民衆の絶大な人気を浴び、弱冠26歳にしてイベリア半島における軍事指導権を任されるのである。この地における敵の本拠地カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を奇跡のごとき引き潮のおかげで占領すると、スキピオは神々の寵愛を受けているという伝説すら生まれた。彼の手腕と魅力はローマ兵のみならず、原住部族民の族長たちをもとらえ、あいつぐ戦勝をものにして、前205年ローマに帰還した。
あくまでイタリアにおける決戦を唱える元老院保守派の声を無視して、スキピオは敵の本国たるアフリカへの遠征を画策する。そこにおけるローマ遠征軍の勝利が重なり、前203年、ハンニバルは本国に召還された。スキピオとハンニバルの間に決戦の気運が高まる。
前202年春、カルタゴ西方のヌミディア領におけるザマが決戦の舞台となった。ハンニバルの戦略を十分に研究していたスキピオは、カンナエの轍を踏まないようにする。しかし、本国で迎え撃つだけあって、今度はカルタゴ軍歩兵は3万6000。これに比べて、ローマ軍歩兵は2万2000に過ぎなかった。騎兵においてはカルタゴ軍4000、ローマ軍6000。歩兵の戦列はにらみ合ったままだったが、両翼の騎兵戦はローマ側ヌミディア騎兵の機動力もあってスキピオに有利に展開した。ヌミディア騎兵がカルタゴ軍の背後にまわり、カルタゴの劣勢は決定的になる。ハンニバルはカンナエの作戦のお株を奪われた形で、大敗を喫したわけである。
この後、スキピオは英雄と讃えられ、アフリカ征服者(アフリカヌス)の異名を戴き、大スキピオとも呼ばれるようになる。ハンニバルの人望は本国でも衰えなかったが、親ローマ派による危険を察知すると、まずシリア王国へ、ついでビティニア王国へ逃れた。しかし、スキピオは一族の醜聞のために失意のうちに没し、ハンニバルもローマの手に追い詰められて自殺した。両者が亡くなったのは奇しくも同年の前183年だった。スキピオ享年52、ハンニバル享年64。古代地中海世界の命運を決した英雄と闘将のあまりにも悲しい結末である。
ローマは第2回ポエニ戦争でカルタゴに厳しい講和条件を押しつけたが、この時点ではそれを滅ぼすのではなく、交易相手として存続させる意向が強かった。しかし、第2回ポエニ戦争までに、シチリア島・ヒスパニアが海外領土である属州となったの続き、前167年までにマケドニア戦争が終わり、その属州支配が東地中海にまで及ぶと、大量の奴隷と安価な穀物の流入は、ローマにおける中小農民の没落をもたらし、その一方で元老院議員のラティフンディアや徴税請負人となった騎士階級(エクイテス)の経済的進出がすすみ、ローマ共和政の社会の矛盾が深まっていった。
カトー
そんな中でカルタゴの脅威にとりつかれた男が登場する。マルクス=ポリキウス=カトー 、一介の農民から弁護士として世に出、コンスル・元老院議員に上り詰めた保守頑迷の雄である。彼はスキピオ家の権勢への反感に燃え、その不正を弾劾したが、晩年のカトーにはもっと気がかりなことがあった。あのカルタゴの復興である。カルタゴはすべての海外領土とほとんどの軍船をローマに奪われながら、敗戦後も商業交易によって再び繁栄し、50年分納の賠償金の残金を一括して払いたいと申し出るほどになった。カルタゴの復興を目にしたカトーは、どんな話題の戦説であっても、結びは「それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである」で締めくくった。そんな男の執念が実り、前149年カルタゴへの宣戦が布告される。それはカトーが人生の幕を閉じる直前だった。
カルタゴの隣国にあるヌミディアの王は、怪人マッシニッサである。怪人と呼ぶのは、86歳で末子をもうけ、86歳でも騎馬軍の陣頭で指揮にあたるほどの人物だったからだ。カルタゴがローマの許可なく戦争が出来ないのをいいことに、たびたび領土を侵犯してカルタゴを悩ませていた。やむなく分納にされた賠償金を完済した年に、カルタゴはたまりかねてヌミディアと開戦する。それはローマにとって望むべくもない宣戦の口実だった。
当初は和議を求めたカルタゴも、ローマの過酷な要求に戦意を固める。ローマの意図するところはカルタゴそのものの壊滅であった。だから、もはや徹底抗戦するほかはない。国民の総力をあげて短期間で武器を製造し、都市そのものが堅固な城塞と化した。市外に出没するゲリラ部隊がローマ兵の手を焼かせる。しかし、海陸両面からのローマ軍の包囲は3年も続いた。
前146年春、ローマ軍が市内になだれこむ。なお1週間ほど市街戦が繰り返され、やがてカルタゴは煙と炎に包まれた。カルタゴの人口50万人のうち、生き残った者5万5000人は捕虜となり、奴隷として売り飛ばされた。町は17日間燃え続け、一木一草も生えないほどの廃墟と化した。さらにローマ人のカルタゴへの敵意は凄まじく土地を塩で埋め尽くし、不毛の土地にしようと試みたとされている。
火焔に包まれ滅びてゆくカルタゴを見つめながら、ローマもまたいつの日か滅亡の運命をまがれないのだろうか、と嘆く勝利者がいた。ローマ軍を率いる将軍スキピオ・アエミリアヌス。アフリカ征服の英雄スキピオの長男の養子である。両者を区別するために、後者を大スキピオといい、前者を小スキピオと呼ぶ。この二人によって、カルタゴは地上から姿を消した。
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