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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー賽は投げられた・カエサル②

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クラッスス

 前54年、ポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリアが死亡すると、二人を結ぶ個人の絆は切れてしまった。クラッススもまたまた武勲を欲し、軍隊を率いてパルティア帝国へ遠征した。もともと無謀な戦いだったが、前53年、クラッススは屈辱的な敗北の中で戦場の露と消える。いまやローマおよび地中海世界は二人の強者の手中にあった。かつての軍功によって偉大なる名声を保つ年長のポンペイウスと、華々しい戦勝を重ねてガリアを平定しつつある昇り龍のカエサル。

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カエサルの軍門に降るウェルキンゲトリクス

 カエサルはさらに征服を進め、ブリテン島にも2度ほど渡った。前53年にはガリア北部のトレウェリ族やエブロネス族を討伐する。前52年、アルウェル族のウェルキンゲトリクスに率いられた原住民部族の蜂起はガリア全土をまきこんだ。だが、カエサルはアレシアの包囲戦において絶妙な用兵戦略でほぼ制圧してしまう。翌年にも戦闘はくすぶっていたが、そこでローマの対ガリア戦争は終結した。今やカエサルは戦利品と徴税で膨大な借財に対処できるばかりか、大富豪となったのである。政界工作の費用と子分のごとき軍隊の維持費。そのための資金はもはや十分だった。

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ポンペイウス

 カエサルのガリア遠征中、ポンペイウスはほとんどローマにいた。閥族派はもはやカエサルこそが元老院体制を脅かしているのだと気づくようになる。彼らはしだいにポンペイウスに好意を寄せる。首都ローマの混迷が深まる中で、閥族派の支持を集めてポンペイウスは前52年には三度コンスルに選出された。しかも、その非常事態のためか、共和政の歴史のなかでも前例のない同僚なしのコンスルであった。

 これに対して、カエサルの軍事指揮権はもはや終わりに近づいていた。その任期が切れれば、彼は武装解除しなければならない。軍隊を解散してただの一市民としてローマに帰還するか、それとも元老院の命令を無視して武力に訴えるか。道は二つに一つであった。

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ルビコン川

 ルビコン川という小さな川は、ガリアとイタリアの境界をなしている。そこを越えればカエサルの軍事指揮権は消える。「運命の寵児」を自負したカエサルは、運命の導きに託して「賽(サイコロ)は投げられた」と言いつつ、前49年1月10日、ルビコン川を渡る。それはローマ国法の蹂躙【じゅうりん】であり、内戦の火ぶたを切るものであった。なお、匙を投げるのは、お医者さんです(笑)。

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 カエサルのおそるべき進軍のなかで、ポンペイウスの呼びかけに応じ抵抗する者はほとんどなかった。元老院の保守支配体制にイタリア中があきあきしていたのかも知れない。イタリア全土で後退を余儀なくなせ、イベリア半島における忠実な軍団もカエサル軍の手によって打倒される。ポンペイウスはもはや東方に拠点を移さざるを得なかった。やがて前48年冬、カエサルの率いる軍団もアドリア海を渡る。軍勢にまさるポンペイウス軍は簡単な相手ではなかった。苦戦を強いられながら、その年の夏、最後の決戦はギリシア北部のファルサロスの野になる。

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ファルサロスの戦い

 ポンペイウス軍の歩兵5万、騎兵700、これに対して、カエサル軍の歩兵2万2000、騎兵1000。2倍以上の軍勢を敵にまわしておきながら、カエサルは戦略にまさった。特に騎兵に対して槍を投げずに敵の顔を狙って突き上げる作戦はめざましい効果をおさめる。若さと美貌が売り物の馬上の貴公子たちは顔を狙われてはたまらんとばかり逃げ出してしまった。戦いの大勢は決まる。カエサル軍の大勝利だった。敗走したポンペイウスはかつて恩をかけたことのあるエジプトのプトレマイオス朝に保護を求めて逃れる。しかし、ローマの内乱にまきこまれるのを忌避して、エジプト王は上陸するとすぐにポンペイウスを殺させた。

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クレオパトラ7世(イメージ)

 プトレマイオス朝のエジプト支配は前2世紀以来、王家内部の争いと原住民の反抗運動により弱体化の一途をたどっていた。早くからローマの属国化し、その併合も時日の問題となっていた。この頃プトレマイオス13世と、その姉クレオパトラ7世が、この王朝の奇妙な伝統により、実の姉弟でありながら夫婦で共同統治者となっていた。この二人が不和になり、アレクサンドリアの市民が弟王の側についていたところに現れたのがカエサルであった。

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 クレオパトラは絨毯にくるまって廷臣の目を欺し、アレクサンドリアの王宮にいたカエサルの前に現れた。もともと女に甘いカエサルはすっかりその虜となり、アレクサンドリアの市民を相手に戦う始末となった。この時の様子は、プルタルコスの『対比列伝』には次のように書かれている。

 「そこでクレオパトラは、腹心のなかからシシリーの人アポロドロスのひとりだけを伴って小舟に乗り込んで、あたりが暗くなったころ王宮に舟をつけた。しかも、他に人目を忍ぶ手立てもなかったので、寝具袋にもぐりこんでその身を長くのばし、アポロドロスがその袋を革紐でしばって、戸口からカエサルのもとに運び入れた。カエサルがこの女性の虜になってしまったのは、蠱惑【こわく】的な姿であらわれるというクレオパトラのこのまず第一の術策のためであったといわれている。」

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クレオパトラ7世(前40年頃)

 楊貴妃と並んで絶世の美女とうたわれる彼女だが、彫刻や貨幣の肖像で見る限り必ずしもそうは見えない。それでも、古代の作家たちの伝えるところでは、彼女は多数の外国語を流暢にしゃべれたし、聡明で教養があり、特に声に魅力があったという。見てくれだけではなく中身の勝負というなら、優れて知的な女性であったらしい。まさしくいま風の美女であったのだろう。

 カエサルはクレオパトラの後見人として実権を握り、また愛人として宮廷生活を送る。二人の間にはカエサリオンも生まれた(カエサルの実子ではないという説もある)。カエサルのアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活は9ヶ月に及んだ。彼はいつまでも続けたいと思ったであろうが、その留守中のローマでは従軍の報酬をまだ受けとっていない兵士の不満が強まり、カエサルへの非難が高まっていた。また各地のポンペイウス派の残党の動きが再び強くなっていた。さすがにカエサルはローマへの帰還の声に応えて出発しなければならなくなった。

 前47年6月、嘆き悲しむクレオパトラをあとに、カエサルは小アジアのポントス王などを討ってローマにもどり、さらに北アフリカのポンペイウス派の残党を打ち破って、翌年ローマで凱旋式を挙行、そのとき約束通り、クレオパトラをローマに呼んだ。しかし、正妻のカルプルニアがいるのでティベル川の河畔に屋敷を与えて住まわせた。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/03 05:21 】

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