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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーブルートゥスよ、お前もか!!!・カエサル③

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カエサル

 カエサルはファルサロスの勝利後は1年任期の独裁官(ディクタトル)、ポンペイウス派の残党を破ったタプソスの勝利後は10年任期の独裁官、内乱終結後の前44年2月以降は終身の独裁官になることになった。それとともに、さまざまな栄誉や特権が与えられる。全軍指揮、国庫管理、和戦決定、風紀取り締まり、推薦選挙などの権限が認められ、ローマ古来の王に由来する凱旋将軍の衣装をいつでも着てよかったし、神殿に彫刻まで建てられた。かつて一人の人物にこれほどの栄誉と権力が集中することはなかった。さらに、政敵の恩赦・貧民救済・ローマ市民権付与などに積極的にとりくみ、元老院の議席を増やして広く人材を登用する。それに加えて、前45年1月1日から太陽暦(ユリウス暦)を採用したことは周知のことである。

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カエサルの肖像を刻んだ貨幣(前44年発行)

 ところで、ある高名な学者は貨幣に刻まれたカエサルの顔に注目する。前44年に鋳造されたものであるが、この横顔には死相があらわれているという。カエサルの究極の狙いはどこにあったのか。彼は一人支配の君主たらんとしたのか、その問題はすでに同時代の人びとの懸念にまでさかのぼる。しかし、並ぶ者なき権勢を誇ったカエサルは、まさにその頂点をきわめながら、暗く疲れ果てていたように見える。

 もはやカエサルの独裁が一時的なものという幻想はくだけた。元老院保守派は共和政国家の名のもとに団結する。前44年、パルティア遠征への出発を3日後にひかえた3月15日、元老院の会議がポンペイウス議場に招集された。

 ある占い師はカエサルに、「3月15日まで注意してください」と忠告していた。当日、カエサルはその占い師に向かって、「この詐欺師め、何事もなく3月15日が来たではないか」とからかう。占い師は「でも3月15日はまだ過ぎていません」と答えたという。まるでゴシップ週刊誌の記者のようにスエトニウスはその話を伝えている。

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 1カ月前の2月15日のルペルカリア祭の際に、民意打診の奇妙な演出が行われている。フォルムに集まった民衆を前に、コンスルのアントニウスがカエサルにうやうやしく王冠を捧げた。ところが予期された民衆の拍手は起こらなかった。カエサルはとっさの気転で王冠を辞してその場をつくろった。

 それから1カ月、カエサルはイタリア内では独裁官、イタリアの外では王になる、という妥協案を出すつもりでいた。彼の着席するのを待って一人の嘆願者が進み出た。願いを容れられないで、彼はカエサルの衣を捉えた。それを合図に、共謀者の一味が取り囲み、剣をふりかざしてカエサルに襲いかかった。傷にひるまずに身をかわして抵抗したカエサルであったが、ブルートゥスを認めた時、顔を上衣で覆い、「お前もか、わが子よ」と叫び、力尽きて政敵であったポンペイウスの立像の下に斃れた。

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ブルートゥス

「わが子よ」と叫んだことから、ブルートゥスはカエサルが愛人との間にもうけた実子だという説があるが、ブルートゥスは前85年の生まれでそのとき41歳、カエサルは56歳だったから、カエサルが15歳の時の子と言うことになるので、無理がある。

 実はカエサルとポンペイウスが対立した時、ブルートゥスはポンペイウス側につき、ファルサロスの戦いの後、カエサル軍に捕らえられている。しかし、カエサルはこれを許し自分の部下として、わが子のように可愛がった。懐の深さを物語るカエサルの態度であるが、そんなことから「わが子よ」という言葉になったのかも知れない。

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 ブルートゥスとカッシウスを首謀者に60人以上の同志を集めた暗殺計画は見事に成功した。元老院は自由の再来に沸きかえり、陰謀の仲間は共和政擁護の英雄として歓呼されるーブルートゥスやカッシウスのこの目算は誤りであった。

 20日、カエサルの葬儀がフォルムで行われた。カエサルの受けた傷は23カ所。民衆はその血まみれの外衣を見て昂奮した。アントニウスの追悼演説と、彼が発表したカエサルの遺言は、いっそう民衆を動かした。市民のめいめいに相当の遺贈が約束されていたのである。独裁官への追慕は暗殺者への憤りにかわった。カエサルの屍を焼く火は、暗殺者たちの家の焼き打ちの火になりかねなかった。ひどい見込み違いにブルートゥスとカッシウスの一味はローマを逃げ出さねばならなかった。ブルートゥスは前42年、フィリッピの戦いでオクタウィアヌス・アントニウス連合軍に敗れ、自刃する。

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アントニウス

 追同演説を行ったアントニウスはカエサルの右腕のような男だったから、すぐにカエサル派の主導権を握ることになる。しかし、カエサルの遺言では、後継者たる養子には甥の息子である弱冠18歳のオクタウィアヌスが指名されていた。
 
 十分に経験を積んだ38歳のアントニウスは、力づくで権力を握ろうとしているかのようだった。共和政国家を堅持する元老院保守派は警戒心を強める。なかでも喜び勇んで政界に復帰したキケロは、アントニウスへの誹謗の熱弁をふるった。その『フィリッピカ』と呼ばれる演説の狙いは、脅かされる自由を守り共和政国家を甦らせることにあった。だが、底流にはアントニウス個人へのひどく感情的な嫌悪感が流れている。

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キケロ

 しかし、その演説はキケロにとって致命的だった。カエサル殺害者の処刑をめぐってオクタウィアヌスと元老院との対立が明らかになると、カエサルの武将だったレピドゥスの仲介でオクタウィアヌスとアントニウスは和解に達する。前43年、三者会談の結果、第2回三頭政治の密約が生まれた。彼らが共通の敵とする「処刑者リスト」の中にキケロの名が記されていた。首都を逃亡したキケロにアントニウスの刺客が追いすがり、キケロは64歳の生涯を閉じる。

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オクタウィア

 戦歴にまさるアントニウスの活躍は目覚ましいものがあった。アントニウスの名声が高まったが、武勲に劣るオクタウィアヌスの評判はかんばしくなかった。そのせいで両者の溝が深まる。しかし、前40年エトルリア貴族出身で仲介の名手マエケナスのとりなしで、両者の和解が成立した。

 その頃たまたま妻を失ったアントニウスにオクタウィアが嫁ぐ。オクタウィアはオクタウィアヌスの姉であり、寡婦だったが、美人の誉れ高い女性だった。この結婚によって両者の結びつきはますます強まるかに思えた。しかし、この姻戚関係のおかげで、かえって両者は亀裂を深めることになる。歴史は思わぬところに落とし穴を仕掛けるものである。

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 カエサルが殺害されると、クレオパトラは息子カエサリオンを連れ急いでエジプトに戻った。カエサリオンのためにエジプト王国を守ること。そのためには世界の趨勢を的確に読みとらなければならない。恐らくそれが彼女の念頭に去来する思いだったのではないだろうか。

 そのころ名声の高いアントニウスが、クレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せる。中年で男盛りのアントニウスもまた、すぐに華麗なクレオパトラの魅力にとりつかれてしまった。彼女にうつつを抜かし、アレクサンドリアに同行、政治のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。二人の間には3児が生まれる。そんな噂はたちまちイタリアにも届く。しかし、妻オクタウィアは夫の不実をとがめず、弟に哀願して両者の間をとりなした。前37年、タレントゥムの契りが約束されたが、それも束の間のことだった。翌年頃から夫の態度はますます冷淡になり、前35年にはるばる会いに来たオクタウィアを拒否するほどだった。

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セクストゥス・ポンペイウス

 この頃、オクタウィアヌスには、もう一つ厄介な仕事があった。ポンペイウスの遺児の一人セクストゥスがローマ海軍を手に収めていた。しかもシチリア島を拠点に海賊行為によって穀物輸送を脅かすのである。海賊退治で勇名を馳せた武将の息子が海賊として有名になったのだから、皮肉と言えば皮肉である。幸いオクタウィアヌスには、有能な部下にして親友のアグリッパがいた。このアグリッパの艦隊が前36年の海戦でセクストゥスを破る。この大勝利によってオクタウィアヌスの声望が高まった。西地中海の制海権を手に収め、やがてレピドゥスをも失脚させてしまう。三頭政治は消滅し、イタリアと西方属州のすべてがオクタウィアヌスの手の中に転がり込んでしまった。

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オクタウィアヌス

 もはや広大な地中海世界にあってオクタウィアヌスに対抗しうる者は、姉婿アントニウス以外にいなかった。前34年、そのアントニウスがこともあろうにローマの東方属州の要地をクレオパトラに寄贈することが白日のもとにさらされる。それはローマ市民に対する裏切り以外の何物でもなかった。前32年、ついにアントニウスのオクタウィアとの離縁が伝えられると、彼の遺言状なるものが公表された、そこにはクレオパトラの子を相続人に指名すると書かれていたという。ローマの民衆は怒り狂い、憤慨の炎が燃える。さまざまな噂が飛び交うなか、反アントニウスと反クレオパトラの嵐はオクタウィアヌスを支持する声のうねりとなっていく。

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アクティウムの海戦

 前31年、オクタウィアヌスは宣戦布告に踏み切る。しかし、アントニウスを公敵と呼ぶのがはばかられたのか、賢明にもクレオパトラへの宣戦であった。9月2日、ギリシア西北岸のアクティウム沖が決戦の舞台となる。この海戦は天下の覇権に雌雄を決する大事件のごとく語られているが、合戦の経過は意外なほどあっけないものだった。アグリッパの指揮するオクタウィアヌス軍を前にして、クレオパトラの率いるエジプト艦隊は早々に逃亡し、アントニウスもその跡を追ってしまったのである。

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 翌年、オクタウィアヌスはアレクサンドリアを陥落させる。アントニウスは自殺し、クレオパトラも捕虜としてさらし者になることを恐れ、自害して果てる。毒蛇に胸を噛ませたという伝説は彼女の死の直後から生まれている。やがてクレオパトラの遺児カエサリオンも殺され、プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。それは、ローマにおける100年の内乱に終止符を打つものでもあった。

 共和政末期の最後の局面において、夫と弟の間で揺れ動いたオクタウィアの気持ちはどんなものであったのだろうか。彼女は何も語っていない。しかし、伝えられるところでは、彼女はアントニウスの血が流れる子供のすべてを引き取って育てたという。自分の産んだ子はもちろんのこと、アントニウスの前妻との子供も、そしてクレオパトラとの間に生まれた子供ですらも例外ではなかった。流血の激動期に一輪の花が咲くように、その美談は人の心を打つのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/07 05:19 】

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