なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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前73年、南イタリアのカンパーニャ地方で気味の悪い騒動が起こった。ローマ人はエトルリア人から、奴隷の真剣勝負を見て楽しむという悪趣味を覚えていたが、この頃には個人でそのための奴隷、いわゆる剣闘士(グラディアトル)をたくさん抱えていた者もあったし、これの特に流行したカンパーニャのカプアではレントゥルス・パティアトゥスなる者が剣闘士の養成所までつくっていた。そこの奴隷の多くはガリア人とトラキア人であった。彼らは、非があるからというわけでなく買主の邪【よこしま】な考えによって無理やりに一緒に閉じ込められ、剣技に携わっていた。
そこの奴隷200人が逃亡を謀ったのである。密告が行われた。前もってそれを知り、いち早く行動を起こした78人の者たちが、台所から包丁や焼串を取って跳びだした。道でよその町に剣闘士の武器を運んで行く何台かの車に出くわしたので、それを奪って武装した。そして屈強の場所を占拠すると3人の首領を選んだ。
その筆頭格がスパルタクスであった。彼はトラキアのマイドイ族の出で、勇気と力とに優っていただけでなく、知恵も温和な人となりも彼の境遇に比すれば立派であり、その生まれた種族よりむしろギリシア人に似ていた。
彼についてはこういう言い伝えがある。初めローマに売るために連れてこられたとき、眠っている彼の顔に蛇が巻きついているのが見えた。予言を能くしディオニュソスの秘儀によって霊感を受ける、スパルタクスと同族の婦人がいたが、その語るところでは、これは彼が偉大なおそるべき勢力となってやがて不幸な結末に至る前兆なのであった。この女は、反乱当時、彼と同じ屋根の下にいて、脱走するのも一緒だった。
スパルタクスを首領にする反乱はまたたくまに広がり、農園や牧場から逃亡して反乱軍に加わる奴隷が続出した。彼らは略奪にかまけず、武器の製造や獲得に努め、獲物は公平に分配したという。さらには貧農や脱走兵なども参入して、総勢6万人とも12万人とも伝えられている。やがて冷静なスパルタクスの率いる奴隷軍はローマ軍の追撃を斥け、北イタリアに向かう。伝記作家プルタルコスの描写に耳を傾けてみよう。
スパルタクスはローマ軍を打ち負かすことを期待せずに、軍隊を率いてアルプスに向かうのだった。アルプスを越えてある者はトラキアに、ある者はガリアにと、それぞれ故郷に赴くべきだと考えていたのである。ところが数を頼んで勢いが強く意気も盛んな一党は、この考えに耳を貸さず、イタリアを横切りながら荒らしていった。
この問題は、スパルタクス軍の行動のなかでも最大の謎と考えられている。もちろん北イタリアに達したとき秋も深まり、アルプス越えの困難な状況もあっただろう。しかし、最大の障害は、北イタリアの地にはまだ奴隷制ラティフンディアが根付いていなかったことが指摘されている。多数の奴隷がいる社会であれば、奴隷が馳せ参じ、食糧や武器の補給などの支援も受けられる。でも、奴隷が少ない社会ではそれも期待できない。つまり、奴隷の反乱は奴隷制社会の枠内でしか勢いづかないのである。これもまた歴史の皮肉あるいは逆説なのだろうか。
クラッスス
前72年末、法務官クラッススの率いるローマ軍が鎮圧に向かう。スパルタクスは南イタリアにとどまり、かつての奴隷反乱の記憶も生々しいシチリア島に渡ろうとした。しかし、海賊たちの裏切りで狙いははずれてしまう。
もはや反撃の余力はなく、前71年スパルタクスは勇敢に戦ってアプリアの戦場に倒れる。これにより奴隷軍は総崩れとなり、捕らえられた奴隷の磔刑【たっけい】の柱6000本がアッピア街道に並んだと伝えられている。北方に逃亡した5000人ほどの一隊は、ちょうどセルトリウスを討って帰国中のポンペイウスによって全滅した。
スパルタクスは古代ローマ人からは「ローマの敵」と見なされために悪名が語り継がれ、中世には忘却された。しかし、近現代になるとスパルタクスは再評価され、カール・マルクスは「古代プロレタリアートの真の代表者」と評し、スパルタクスは抑圧から解放を求める労働者階級の英雄と見なされるようになった。
コロッセウムは古来、ローマの象徴とされており、「コロッセウムが立つ限り、ローマも立つであろう。コロッセウムが倒れるとき、ローマも倒れるであろう。ローマが倒れるとき、世界も倒れるであろう。」とうたわれてきた。その観客席に5万の観衆をのんだ、この闘技場で、いったいなにが行われていたのであろうか。
コロッセウムの落成式がおこなわれたとき、時のローマ皇帝ティトウスは100日間にわたって各種の競技をおこなった。剣闘士同士の血なまぐさい競技もあったし、たった1日の間に人間と猛獣の格闘のなかで、あらゆる種類の5000頭もの猛獣が殺されるということもあった。ちなみに、猛獣は地下の小屋に入れられており、人力エレベーターで試合会場に登場して来た。
剣闘士同士の試合は相手を殺すか負傷させるかして無力化させるまで続く。試合を終わらせたければ人差し指を高々と上げるか、盾を放り投げると「降伏」の意思表示になり、降伏した相手を傷つけるのは卑しい行為とされた。そして決着がついた後、試合の敗者については観客が助命か処刑かを選択できた。一般的には敢闘したとして助命(ミッスス)するなら親指を上に、見苦しい負け方をしたとして止めを刺すなら親指を下にするのが合図であったとされるが、現代の研究者たちは親指を突き上げた拳とともに「殺せ!」と叫べば処刑、親指を下げれば助命だったと考えている。
歴戦の剣闘士であれば、観客に死を宣告されるような見苦しい負け方はしないように特訓されている。それまでに大金をかけて養成した剣闘士を失うのは経営者にとっても大きな損失であるため、剣闘士が観衆の希望により木剣(ルディス)を授けられて自由になるか、重傷を負って戦えなくなるか死んだ場合、主催者は市場価格に見合った金額を興行師に支払わねばならなかった。
また、この闘技場を水で満たして人工の湖をつくり、3000人もの剣闘士を動員する模擬海戦もおこなわれた。
ローマ帝国の各地からやってきた大観衆を前にして、このような人間と猛獣の数知れない死によって血ぬられたコロッセウムは、その後、404年の剣闘士試合の中止、523年の猛獣演技の廃止にいたるまで、毎年のように残酷な死のゲームを、熱狂した観客に提供し続ける場となったのであった。また、キリスト教徒が迫害された時代には、信者をライオンの犠牲にするなどの処刑も、「見世物」として興行された。
ローマ帝国の各地からやってきた大観衆を前にして、このような人間と猛獣の数知れない死によって血ぬられたコロッセウムは、その後、404年の剣闘士試合の中止、523年の猛獣演技の廃止にいたるまで、毎年のように残酷な死のゲームを、熱狂した観客に提供し続ける場となったのであった。また、キリスト教徒が迫害された時代には、信者をライオンの犠牲にするなどの処刑も、「見世物」として興行された。
コンモドゥス帝
剣闘士の中には奴隷だけではなく、みずから望んで剣闘士となった騎士たちも試合に出場するようになった。皇帝の中にも剣闘士試合に熱中する者が現れた。コンモドゥス帝は、自ら剣闘士となり、伝えられるところによれば、剣闘士試合を計1000回闘い、象を含む何千頭もの野獣を殺したとされる。さらに彼は剣闘士の訓練所に部屋を持ち、そこに泊まり込むこともあった。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝
コンムドゥスは五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の息子である。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はストア派の哲学者で、『自省録』を著したことでも知られる人物。その後継者が剣闘士の試合に熱中する馬鹿息子であったから、五賢帝の時代は終わりをつげることになった。コンムドゥス帝は192年12月31日、自らの妾妃と親衛隊司令官とが企てた陰謀によって、いつも練習の相手を務めさせていたお抱えの剣闘士によって絞殺されている。
マキシマス将軍
このコンムドゥスを描いた映画が『グラディエーター』であるが、ラッセル・クロウが演じた主人公のマキシマス将軍は架空の人物である。
※前半は映画『スパルタカス』、後半は映画『グラディエーター』の画像を拝借しました。
※前半は映画『スパルタカス』、後半は映画『グラディエーター』の画像を拝借しました。
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