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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーマザコン青年の末路・暴君ネロ

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クラウディウス帝

 ローマ帝国第4代クラウディウスは生涯に4人の妃を娶ったが、あとの二人はなかなかの代物だった。第3の妃メッサリナは情欲の権化で多くの男と情事を重ねて浮き名を流したが、48年までは表沙汰にならないでいた。しかもこの間に彼女に逆らった者は容赦なく処刑され、元老院議員が35名、騎士が300名に及んだと伝えられるが、その数はかなり誇張されていよう。

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メッサリナの最期

 48年、彼女は愛人の富裕な貴族シリウスと正式な結婚を思い立ち、クラウディウスを除こうとする陰謀を企てた。しかし、解放奴隷のナルキッススに探知され、ついに彼女は愛人とともに処刑されたのである。

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小アグリッピナ

 クラウディウスがバラスの勧めで新しく妃としたのは姪の小アグリッピナで、母アグリッピナの野心に燃えた血をうけ、それを着々と実行に移す女であった。クラウディウスはメッサリナとの間に一男一女、すなわちブリタニクスと娘オクタウィアをもうけ、ブリタニクスは元首(プリンキパトゥス)の後継者とみなされていた。

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ネロ

 しかし、小アグリッピナは夫を説きつけて、自分と前夫との間の子をクラウディウスの養子とし、未来の元首とすることに成功した。これがネロであった。さらに小アグリッピナは息子をオクタウィアと結婚させたが、彼女はそれでも安心しなかった。ナルキッソスが依然ブリタニクスの肩を持っていたからである。ついに54年、彼女は他人に心を動かされやすい夫の気持ちが変わるのを恐れて、茸料理に毒を盛り込んだ。しかし、それに失敗すると、彼女は皇帝の主治医を買収し治療処置と見せかけて毒を塗った鵞鳥の羽を夫の喉に差し込ませ、ついに64歳の皇帝をあの世に追いやった。

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ネロとセネカ

 ネロの即位は小アグリッピナが近衛軍にうまくわたりをつけていたお陰で、たいした支障も無く実現した。このまだ17歳の新君主には近衛長官ブルスと哲人セネカという賢明な後見人がつけられ、彼の治世は順調にスタートした。ブルスやセネカは小アグリッピナに推挙されたのであるが、彼らはローマ婦人がヘレニズム諸王国の女王のように政治に深く介入し、摂政となったり外国使節を引見したりすることに反対した。ネロも母が「君主らしくありなさい」「政務に励みなさい」と説教を繰り返すのが煩わしくなった。ネロは本来可愛げのある子であるが、母の血を受けて好き嫌いの感情が強く自制心に乏しく、ただ大きな図体が彼の弱い意志をカムフラージュしていた。趣味はスポーツ、音楽、文芸であった。

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ブリタニクスと小アグリッピナ

 ネロを愛する以上に権勢欲にとりつかれていた彼の母は、ネロが後見人と示し合わせて彼女の言動に耳を貸さなくなると、いままで疎んじていたブリタニクスがにわかに可愛くなり、彼のために一肌脱ごうという気になっていた。しかし、まもなくブリタニクスはネロに毒殺された。

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小アグリッピナの死

 やがて、後の皇帝オトーの妻ボッパエア・サビナがネロの愛人となり、気位の高い母を消すことを唆した。解放奴隷あがりの海軍司令官が悪役を引き受け、彼女をナポリ湾に招待し、転覆しやすいボートに乗せて人知れず溺死させようとしたが、この時は失敗に終わり、後に彼女の家を襲って惨殺した。59年のことであった。小アグリッピナがネロの命を窺っていたためだと公表し、元老院や輿論の前を取り繕った。彼女の過去を知る世人はこの説明に半信半疑であった。

 ついでネロはオクタウィアを離婚し、オトーをイスパニアのルシタニア知事に体よく赴任させてボッパエア・サビナと結婚した。オクタウィアは初めカンパーニャに追放されたが、民衆の同情が寄せられると、不義と反逆の罪をきせられて、パンダテリア島に流され、後についに処刑された。

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ボッパエア・サビナ

 こうしてすべての邪魔者を除いたネロは、22歳になるとみずから政治にあたろうと思った。62年にブルスが病死し、セネカもボッパエアに煙たがられネロの信頼を失って引退すると、そのあとの主な相談相手はボッパエアの他にはブルスの跡を継いだ佞臣ティゲリヌスで、政治は次第に乱れた。乱費で大きく穴の開いた財政を、有力者の処刑、追放、財産没収で償いをつけたが、犠牲者の中には、かつて彼の即位に尽力したバラスもいた。ネロと仲睦まじかったボッパエアも65年に死んだ。その真相は不明でいろいろ取り沙汰された。

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 64年7月、ローマ市は下町から出た怪火によって数日間燃え続け、市街の大半が焼失した。ネロはこの時ローマ市南方の海岸都市アシティウムの離宮にいたが、すぐ帰還して消火と罹災者救護、さらに市街の復興に努力した。しかし、彼の平生の行いが悪いためか、彼が市街の燃えるさまをバルコニーから眺めトロイア滅亡の詩を口ずさんだとか、また新市街建設で名をあげるため旧市街に放火して焼き払わせたとかいう忌まわしい噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。

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 ネロに罪があったかどうか真相は不明だが、ネロはこの噂を消すため側近の進言によって、放火をキリスト教徒のせいにし、彼らを十字架につけたり、火あぶりとしたり、獣の皮をかぶせて猛犬に噛み殺させたりした。ネロはこの見世物のために庭園を開放し、競馬を催し、おどけた服装をして野次馬に加わり、自分で戦車を走らせたりした。したがって、暴君ネロの名を高からしめたこの迫害はキリスト教の信仰のせいではなく、放火罪が表向きの理由となっているわけである。キリスト信者は、密かに集まって礼拝をし、一般のローマ人と親交や社交を共にしなかったので、陰謀を企み、魔術を行い、人肉を食い、近親姦にふけっているとローマ人に誤解され、ローマの伝統と良俗の敵であるとして憎まれていたのを利用したのであろう。この迫害でペテロもパウロも殉教している。

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セネカの最期

 翌65年には元老院議員ピソの陰謀が暴露し、かつてのネロの指南番セネカとその甥の詩人ルカヌス、ネロの親友で小説『クォ・ヴァディス』の主人公として理想化された「優雅の判定人」ペトロニウスもそのうちに数えられた。人生の短さと無欲を説くストア哲人で同時に南海貿易などで巨富をなしたセネカは、入浴して血管を太くし、毒を注射してわが生命のおもむろに消えゆくさまを書記に筆記させた。ルカウスは自作の詩『ファルサリア』の中の死にゆく兵士の条【くだり】を口ずさみながら死んだ。

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 政治に飽きたネロは、ギリシア文化の愛好者として、ローマにスポーツや芸術のコンクールを導入した。彼自身、稀有の天才詩人と信じ込み、とりまき連のおべっかだけでは満足せず、民衆の喝采を求めて歌手として劇場に出演したりした。66年末から翌年にかけてギリシアを巡遊し各所旧跡を訪ねた。ギリシアの4大祭典がこの1年間にまとめて開催され、ネロは戦車競争に出場して失敗したが、八百長で優勝者になった。

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ネロの最後

 しかし、暴君の支配も長くは続かなかった。68年にはガリア知事ヴィンデクスが反乱を起こした。彼はまもなく敗死したが反乱は各地の軍隊に広まり、ネロは失脚し、イスパニアのタラコネンシスの知事ガルバが皇帝に担ぎ上げられた。近衛軍はネロを見捨て、元老院は彼を公敵と宣言した。ネロはローマ市を脱出したが、ついに観念して忠実な解放奴隷の介錯を受けて喉を突いた。彼が最後に残した言葉は、「なんと私とともに芸術家が消え去ることよ!」であった。享年30歳。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/10 05:23 】

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