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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー「神の災い」と呼ばれた男・アッティラ

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 フン人は4~5世紀にヨーロッパに侵入したアジア系遊牧民。昔はフン族と呼んでいたが、最近の高校世界史教科書ではフン人と呼ぶ。中国の歴史書に現れる匈奴が前1世紀に漢に討伐され、南北に分裂し、その北匈奴が西方に移動したのがフン人であると言われるが、不明なことも多い。実態はトルコ系・モンゴル系を含む遊牧・騎馬民族と考えられる。

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 フン人は2世紀頃、バイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀には南ロシアのステップ地帯に入った。370年頃ヴォルガ川を越えてゲルマンの一部族東ゴート人の居住地に侵攻し、東ゴート人の大半がフン人に服従した。フン人はさらに西方の西ゴート人を攻撃したため、375年西ゴート人は移動を開始、376年にドナウ川を越えローマ領内に侵入、ゲルマン人の大移動の引き金となった。

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ブレダ(左)とアッティラ

 アッティラは406年頃、フン人の王ルーアの弟、ムンズクの息子として生まれた。434年、ルーアが死去し、フン人全体を統べる者として甥のブレダとアッティラが共同統治者として即位した。441年ビザンツ帝国のトラキア・マケドニア方面に侵入、ビザンツ帝国から賠償金と貢納金を得た。

 445年頃にブレダが死去する。狩猟中の事故で死んだともされるが、真相は不明であり、一般的には弟のアッティラによって殺されたと信じられている。ブレダの死により、彼に従属していた諸部族はアッティラの支配下に入り、アッティラがフン人唯一の王となった。

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アッティラ

 アッティラはブルグンド人などのゲルマン諸族を征服し、パンノニア(現ハンガリー)に本拠を置いてビザンツ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。

 歴史家プリスクスによると、448年のこと、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという。

 
449年、ビザンツ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送ったが、その中に歴史家プリニクスがいた。彼はアッティラの外見について次のように語っている。「背は低いが筋肉質で、頭が大きく、顔色はくすんだ黄色。両目おもに斜視で、蓄えられた顎髭には白髪が混じっている。低い鼻と浅黒い肌は、彼の出身を表しているように思える」と。この時、テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが、暗殺は失敗に終わっている。

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カタラウヌムの戦い

 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉である野心家のホノリアは、弟にとって最悪の敵の妻となることで、政治的権力を得たいと考え、450年にアッティラに手紙を出した。「私と結婚したら、持参金として西ローマ帝国の領土を譲ります」、と。

 451年、軍神マルスの化身となったアッティラは、花嫁ホノリアと結婚するため50万人の大軍を率いて西進を開始、ライン川を越えて北ガリア(フランス)を襲った。アッティラはランス司教ニカシウスを教会の祭壇で虐殺し、6月にはオルレアンを包囲する。6月20日、西ローマ帝国近衛司令官アエティウスの率いる西ローマ・西ゴート・フランクの連合軍とカタラウヌムで激突した。この戦いでアッティラは自殺を覚悟する程の敗北を喫し、撤退した。

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レオ1世とアッティラの会見

 452年、体勢を立て直し、皇女ホノリアとの結婚を改めて主張したアッティラは、北イタリアに侵攻。道々で略奪を行い、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を攻略してローマを窺ったが、ウァレンティニアヌス帝の望みによりアッティラと会見した教皇レオ1世の説得で、アッティラはローマを去ることになる。恐らく、疫病と飢餓がアッティラの陣営で発生しており、戦う余力が無かったものと思われる。

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 453年、パンノニアの本拠地まで引き返したアッティラは、ゴート人の美女イルディコを娶った。婚礼の宴が終わり、二人は寝室に向かいました。そして同衾中、新婦の悲鳴が響きました。なんとアッティラは、夫婦の営みの最中に鼻血を噴いて、突然死してしまったのである。「神の災い」や「神の鞭」と呼ばれ、恐れられた男のあまりにもあっけない死であった。伝説によればアッティラの遺体は征服で得た戦利品とともに金、銀、鉄の三重の棺に安置された。男たちが川の一部の流れを変えて棺を川底へ埋めて流れを元に戻し、彼らは埋葬地の正確な場所の秘密を守るために殺されたという。偉大な指導者を失ったフン人の帝国は一挙に崩壊し、歴史の彼方に消えてしまった。

 ちなみに、現在のパンノニアに住むハンガリー人を、フン人の後裔とする説明があるが、それは誤り。ハンガリー人はフン人とは異なるアジア系遊牧民マジャール人の後裔であり、ハンガリーの正式国名はマジャールオルザーク、「マジャール人の国」である。じゃあ、なぜヨーロッパの他民族が彼らをハンガリーと呼ぶようになったのか?二つ説があって、一つは、ヨーロッパの人たちが、5世紀にこの地方に侵入したフン人と、9世紀に侵入してきたマジャール人を混同し、フン人の Hun に、人を意味する gari がついてハンガリーというようになった、と言う説である。もう一つの説は、この民族が故郷のウラル山脈を出て、9世紀にこの地に移動してきたとき、トルコ系のオヌグール(Onugur)人と密接な関係になったので、他の民族からはオヌグールが変化してハンガリーと言われるようになった、というものである。日本ではハンガリーのハンをフンからきた、という説明をよく見かけるが、現在では後者のオヌグール=ハンガリー説の方が有力な説となっている。


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/17 06:11 】

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