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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーカールの戴冠・カール大帝

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トゥール・ポワティエ間の戦い

 フランク王国メロヴィング朝の宮宰職を担うピピン2世(中ピピン)の息子カールは、714年の父の死後おこった後継者争いを勝ち抜き、アウストラシア・ネウストリアをはじめとするフランク王国内の平定を進めた。732年には10年ほど前から地中海沿岸やピレネー地方を劫略していたイスラーム教徒の騎馬部隊がアブド=アッラフマーンに率いられて北上したのを、トゥールとポワティア間に撃退した。

 その後730年代を通じてミディ地方やプロヴァンスに対して度重なる遠征を行ったために、後に南仏の人々から「マルテル(鉄槌)」の渾名を与えられ、畏れられることになる。こうした頻繁な遠征・イスラーム騎馬軍との対決という状況の中で、カールは教会・修道院領を強制的に収公し、これを封土として家臣に与え、機動力の高い封臣軍を作り上げた。この教会領の強制還俗のために、カールには「教会泥棒」というイメージが定着した。

ピピン    
ピピン3世(小ピピン)

 カール=マルテルの死後、その息子カールマンとピピン3世(小ピピン)が王国を宮宰として二分した。しかし、747年カールマンが突如俗世を捨て、モンテ=カシノ修道院に隠棲すると、ピピンはメロヴィング家の国王キルデリク3世を廃位して自ら王位にのぼる野心を抱く。

 751年、ローマ教皇ザカリアスの承認を得たうえで、ピピンはソワソンに参集したフランク人によって国王に推戴され、司教たちから塗油をうけた。カロリング朝の始まりである。西ゴート王国ではすでに国王の即位の際に塗油の儀式を持ち込んでいたが、フランク王国では初めてのことであり、フランク王権が聖なる性格を帯びることになった。

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ピピンの寄進

 さらに754年には教皇ステファヌス2世をパリ郊外のサン=ドニ修道院に迎え、息子カール、カールマンとともにあらためて塗油を受けた。756年には教皇の一連の厚意にこたえるべく、都市ローマの宗主権やランゴバルトから奪還したラヴェンナ太守領をはじめとする領土を教皇に献上し、寄進状をペテロの墓に捧げた。

 「ピピンの寄進」によりローマ教皇領が成立し、教会国家の基盤が築かれる一方、旧約聖書のダヴィデを模して塗油され、ローマ教皇と分かち難い絆で楠ばれたキリスト教的王権の新たな姿であった。

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カール大帝

 カール大帝はヘラクレスの異名をもつピピン3世を父とし、ハンガリー王女「大足のベルトレド」を母として生まれた。1feetという単位はカール大帝の足をもとにして決められたという。feetはfoot(足)の複数形だが、そうするとカール大帝の足の大きさは30,48cmということになり、随分大きな足だ。おそらく母の大足が遺伝したのであろう。

 アインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かかったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。

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 768年、ピピン3世の死で弟カールマンと共治となった。771年、弟の死で単独支配者となり、在位46年の間に53回も出征した。苛烈なサクソニア戦争を戦ってザクセン地方を征服、バイエルンを併合して後のドイツ国の基礎をなし、教皇の要請でイタリアのランゴバルト王国を滅ぼした。スペインに出征して、イスラーム教徒と戦い、スペイン辺境伯領をおいた。また、アジア系のアヴァール人を討ってドナウ川のほぼ中流域まで支配を拡大した。こうして西はスペインのエブロ川、東はエルベ川、北は北海、南はイタリア中部におよぶ大領域に、イングランド・スカンディナヴィアを除く全ゲルマン民族と旧西ローマ帝国の住民を加えた約1500万の人口を支配した。

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アルクイン

 名実ともにローマ教皇の守護者となったカールは、やがて宮廷学校長にイギリスの神学者アルクインを招いてキリスト教と学芸の保護・発展に尽力する。日頃、語彙も豊かで淀みなく話したカールだが、文字の読み書きは出来なかった。ただし、戦場にあっても夜な夜な石板に手習いをし、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。

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レオ3世

 一方、聖画像崇拝の可否を巡って混乱するビザンツ帝国では797年、レオン4世の未亡人で摂政のイレネ后が息子のコンスタンティノス6世を殺して初の女性皇帝を号した。教皇レオ3世はこの機をとらえて女性による皇帝を無効として空位を宣言、皇帝権の西方復帰を画策する。

 800年11月、カールはサン=ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン=ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。
 

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 12月25日、カールはサン=ピエトロ大聖堂の祭壇に跪いて祈っていた。ミサが終わって立ち上がろうとしたカールの頭上に、燦然と輝くローマ皇帝の黄金の冠がそっと載せられた。驚いて目を見張るカールに向かって、堂内に居並んだ人々の口から、「尊厳なるカール、神により加冠され、偉大にして平和なローマ人の皇帝に、長き命と勝利あれ!」と祝賀の叫びがあがったという。

 世俗権力と教権の二つの中心が並立する新しいヨーロッパの誕生であった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/21 05:21 】

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