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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー征服王ウィリアム

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クヌート

 デーン人(ヴァイキング)のイングランド王国侵攻は、アルフレッド大王によって一時抑えられたが、11世紀にふたたび活発になった。エセルレッド王は同じくデーン人に侵攻されていたノルマンディー公と結んでこれに対抗しようとし、1002年にイングランド中のデーン人を皆殺しにする命令を出した。オックスフォードでは聖堂に逃げ込んだデーン人を町民が焼き殺すという惨事も起こった。激怒したデンマーク王スヴェンが、翌年大軍を率いてイングランドに上陸すると、エセルレッド王はノルマンディーに亡命、イングランドの有力貴族はスヴェンを国王として認めた。

 スヴェンが急死したためその子クヌートがイングランド王位を継承、旧王勢力を撃破して、改めて1016年にイングランド王に即位した。デーン朝の成立である。
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 クヌートは、1019年に兄のハーラルが急逝したためデンマーク王も兼ね、イングランドとデンマークにまたがる北海帝国の盟主となった。デンマークの強大化を恐れたノルウェーとスウェーデンが連合軍を作りそうな動を見せると、機先を制してノルウェーを撃破し、スウェーデンの一部も支配下においた。こうしてクヌートは北海に面したほぼ全地域をおさえ、イングランドは北海商業圏の一角を占めることで、都市と商業が大きく成長することとなった。

エドワード懺悔王 
エドワード懺悔王

 しかし、1035年にクヌートが死ぬと、デーン朝はその広大な領土を維持することが出来ず、急速に分解した。イングランドも混乱が生じ、有力貴族たちは、デーン朝の国王に代わって、1042年にエゼルレッド王とノルマンディー王女エマとの間に生まれたエドワードを迎え、アングロ=サクソン人の王位を復活させた。

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ウェストミンスター寺院

 エドワードは白子(アルビノ)で柔弱な性格であったそうだが、信仰心は厚く1045~50年にテムズ河上流にウェストミンスター寺院を建立したことから、懺悔王の名で呼ばれている。ウェストミンスター寺院では1066年以降、「エドワード懺悔王の礼拝室」でイギリス国王の戴冠式が行われており、また、13世紀~18世紀のイギリスの王は、リチャード3世ら数人を除き、ほぼこの寺院に埋葬されている。

 エドワードはアングロ=サクソンの有力貴族ゴドウィンの娘エディスと結婚したが、形式として婚姻関係を結んだにすぎず、エドワード自身は修道士としての純潔にこだわったため、後継ぎをもうけることがなかった。

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ハロルド2世

 1066年にエドワードが後継者を指名せずに死去すると、王位を自称するものが複数で争い、そのうちの一人、エドワードの義兄であるゴドウィン伯のハロルドがハロルド2世として即位することになった。これに対し、ノルマンディー公ウィリアム(フランス語表記ではギョーム)が、エドワードの従兄弟(エドワードの母エマの甥)に当たることから王位継承を主張、イングランドに侵入する構えをみせる。 

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ノルマンディー公ウィリアム

 ハロルドの即位に反対する弟トスティは、イングランドへの侵入を窺うノルウェー王ハラール3世の軍隊に協力してヨークの東方のスタムフォード=ブリッジに兵を進めた。ハロルド2世はウィリアムの侵攻に備えて南部に終結していた精鋭を急遽北上させ、この連合軍と戦闘を交え、大勝してトスティを戦死させた。

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へースティングズの戦い

 この間手薄を狙うウィリアムはスタムフォード=ブリッジの戦いから3日後の9月25日、サン=ヴァレリー港を出港した。ウィリアムの率いる約5000人の船隊は9月28日難無くイングランドのペヴンシーに上陸し、彼は浜辺の砂を口に含んでイングランド征服の誓いを新たにした。戦場に選ばれたのはへースティングズの北方であったが、ハロルド軍は北部の戦闘に次ぐ南下に兵力を消耗していたため、騎兵を中心とするウィリアム側がわずか1日で勝利し、ハロルドは戦死した。

 1066年12月25日、ウィリアムはウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得たのである。

 面白いお話を一つ。ノルマン朝の支配者はフランスからやって来た連中でフランス語を話し、征服されたアングロ=サクソン系の人々は英語を話していた。元々、イングランドでは生きている牛も食肉となった牛もcowやoxと呼んでいた。ところが、支配階級のフランス人は牛をboef(ボフ)と呼んでいたので、テーブルに牛肉として出す時はボフと言って出した。このboef(ボフ)がbeff(ベフ)になり、beef(ビーフ)になったと言われている。ピッグとポークも同じ関係だ。これ以外にも英語の単語の3割ほどがフランス語に由来すると言われている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/28 05:23 】

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