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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー素足の皇帝・カノッサの屈辱

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クリュニー修道院

 西欧封建社会では、王権が貧弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界全体に普遍的な権威を及ぼした。教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭・修道院長など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教や修道院長などは国王や貴族から寄進された荘園を持つ大領主でもあった。高位の聖職者が諸侯とならぶ支配階級となると、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば本来聖職者ではない人物をその地位に任命し、教会に介入するようになった。

 高位聖職者になれば所領や豊かな財力を持つことが出来たため、。聖職者の地位を金銭で売買する、いわゆる「聖職売買」(シモニア)が次第に行われるようになった。また、聖職者の中には、俗人と同じように妻を持ち、信仰心が深くなくとも高い地位を買うことがあった。こうした教会の堕落した状況を変えようとしたのが、フランス中東部のクリュニー修道院を中心とする改革運動であった。

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グレゴリウス7世

 1073年に即位したグレゴリウス7世はこの改革を推し進め、教会内部にあっては聖職売買や聖職者の結婚の禁止を厳命し、違反者を容赦なく追放した。外部に対しては世俗権に対する教皇権の優位とその不可侵性を主張、特に国王など俗人による聖職者の任命を禁止した。

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ハインリヒ4世

 これに激しく反発したのが神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世であった。ハインリヒ4世は父の急死によりわずか6歳で即位、15歳で親政を開始したが、父王の時代に抑圧された諸侯・聖職者の反乱にあい、困難な統治が続いていた。ハインリヒ4世はオットー大帝以来の帝国教会政策を維持して領内の司教などの聖職者の任命権を行使し、教会を通じての統治を続けていた。

 1075年、グレゴリウス7世が俗人による聖職叙任の禁止を通告してきたが、ハインリヒ4世は、北イタリアへの勢力拡大をはかって、子飼いの司祭たちをミラノ大司教・フェルモ司教・スポレト司教などに次々と任命していった。グレゴリウス7世は、司教の叙任権が王でなく教会にあることを通達したが、ハインリヒ4世は聞き入れようとしなかった。

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 1076年1月、全面的対決を決意したハインリヒ4世はヴォルムスで帝国議会を開き、グレゴリウス7世が不正な方法で教皇に即位したとしてその無効を宣言し、対抗する教皇を選出した。それに対し、グレゴリウス7世は復活祭前の公会議でハインリヒに破門を宣告し、彼とキリスト教徒の交わりを断ち、臣下の彼に対する忠誠を解除した。

 かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公はじめドイツの諸侯たちは、この機会をとらえてハインリヒ4世に反旗を翻した。ハインリヒが1年以内に破門を解除されないならば、破門の一周年にあたる1077年2月、教皇が主催するアウクスブルクの帝国議会で帝位を追われるものと決議した。

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モン・スニ峠

 情勢のこの急変には、さすが強気のハインリヒも打つべき手に窮した。そこで彼は、先に出した教皇罷免の命令を撤回して恭順の意を表し、アウクスブルク帝国議会での裁きに従おうと宣言した。

 しかしその後、彼はアウクスブルクでの結末に不安を感じ、黙って裁きを待っているよりは、すすんで運命を開拓した方が良いと考え、ドイツからの脱出を謀ったのだった。数々のアルプスの峠はもう教皇側の諸侯の手に落ちていたので、残ったのはモン・スニ峠だけだった。こうして、厳冬のモン・スニ越えという冒険が敢行されたのである。

 たださえ困難な冬季のアルプス越えを。異例の厳冬に、しかも女子供づれでやるというのは、ほとんど捨て身のやり方だった。年代記はこの峠越えの難渋をきわめて生き生きと描いている。ともかくも皇帝一行はアルプスを越え、ロンバルディアに向けて降った。ここでの事情はドイツとは違っていた。ハインリヒはゆくゆく彼の同情者を集め、その一行はやがて遠征軍にも変わらないほどに膨張した。

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カノッサ城

 驚いたのは教皇グレゴリウス7世だった。おりから彼はアウクスブルクの帝国議会に臨むため、イタリアを北上中だったが、この報せに急遽予定をかえ、信任厚いトスカナ伯夫人マティルドの堅城、アペニン山脈北端の要害カノッサに閉じ籠もった。

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ハインリヒ4世(中央)、クリュニー修道院長(左)とマティルド

 このとき以来何回かの使節が教皇と皇帝の間を往復した。皇帝の懇願にも拘わらず、教皇は頑として接見を拒んだ。しかし、マティルド夫人やクリュニー修道院長ユーグの懇請などもあって、最後に教皇は皇帝に譲歩した。

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 ハインリヒはカノッサ城外で痛悔の実を示すことを求められた。彼はただ一人、三重の城門の第二門の中に入ることを許され、無帽、裸足、わずかに粗毛の修道衣を纏っただけで、三日間雪の上に立ち、涙とともに赦免を乞い続けた。

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 こうして皇帝ハインリヒ4世は最後に城内に招き入れられ、告解を行い、諸侯との争いの解決を教皇の裁定に委ねることを条件に破門を解かれた。これが皇帝権の悲劇、「カノッサの屈辱」として知られている事件である。

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グレゴリウス7世の客死

 ハインリヒ4世は帰国後、対立皇帝ルドルフを破ったが、教皇との紛議が再発して再び破門されると、1081年イタリアに侵入しローマを囲んだ。教皇のもとにいた13人の枢機卿達は逃亡し、新教皇クレメンス3世が即位、改めてハインリヒは帝冠を受けた。教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に追い込まれたが、ロベール=ギスカールの率いる南イタリアのノルマン人に救出されたがサレルノに配流となり、「正義を愛し、不正を憎んだがゆえに配流に死す」と言い残して同地に没した。

 ハインリヒ4世はその後も教皇ウルバヌス2世から破門され、「神の平和(休戦)」による最初の帝国平和令を公布した。しかし、諸侯と結ぶ息子のハインリヒ(後のハインリヒ5世)などの諸反乱に苦しめられ、捕らえられて退位し、失意のうちに翌年リエージュで没した。享年55歳。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/07/31 05:16 】

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