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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーソロモンよ、われ汝に勝てり!・ユスティニアヌス大帝

 476年に西ローマ帝国がゲルマン人によって滅ぼされたすぐ後に、東ローマ帝国でアナスタシウスという皇帝が現れた。たいした経歴もなく帝位に就いたのだが、その統治は着実な成果を収め、没時には32万ポンドの金を国庫に貯えるまでになった。東ローマ帝国の豊かさが窺える。

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ユスティウス1世

  アナスタシウスの後継者選びは、元老院・軍隊に市民も加わって紛糾した。結局、ユスティヌスという老将軍が選ばれた。農民上がりの無学な男で、皇帝になったのはいいが、勅令に署名することもままならないありさまであった。LEGI(朕は読んだ)の4文字をくり抜いた小さな板を書類の上に置き、秘書官に手を添えてもらって、くり抜きに沿ってなんとかペンを動かしたという。

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ユスティニアヌス1世

 ユスティヌスには一人の甥がいた。やはり田舎者であったが、若くしてコンスタンティノープルに上り、学問も修めたこの甥は、まもなく伯父の養子となり、政治の実権を握った。そして跡を継いで皇帝となる。有名なユスティニアヌス1世である。

 ユスティニアヌスの名を不滅のものとしたのは『ローマ法大全』である。法学を学んだこともある彼は、即位の半年後に新法典編纂のための10人委員会を設置した。委員長となったのはトリボニアヌスという法学者で、首都の法学校の教授たちが編纂委員となった。

 編纂委員会は精力的に仕事を進め、1年余りで、歴代皇帝の法令をまとめた『勅令集』を完成させた。もっとも急ぎすぎて手落ちがあったのか、編纂作業をやりなおし、534年11月に改めて『勅令集』を刊行している。

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 ローマ帝国では、法学者たちの法解釈・学説もまた法として機能していた。編纂委員会の次の仕事は、2世紀のガイウスや3世紀のウルピアヌスら、著名な法学者の註釈・学説の整理であった。今回もトリボニアヌスを委員長とし、ベイルートの法学校の教授も招いて作業は進められた。こうして533年12月に『学説彙纂』ができた。同時に欽定の教科書として『法学提要』も刊行された。

 この後ユスティニアヌス自身が出した法令が、彼の死後に『新勅令集』としてまとめられた。『勅令集』『学説彙纂』『法学提要』『新勅令集』をまとめて『ローマ法大全』と呼んでいる。

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 ユスティニアヌスは建築事業にも熱意を示した。その治績を記したプロコピオスが、わざわざ『建築について』という作品を著しているほどである。皇帝が最も力を注いだのはハギア=ソフィア聖堂であった。『建築について』の第1巻第1章はハギア=ソフィア聖堂について詳しく記し、その壮麗なドームを「黄金の鎖で……天から吊されているようだ」と称えている。

 コンスタンティノープルの象徴であるハギア=ソフィア聖堂は、532年のニカの乱ーこの市民暴動についてはのちほど述べるーによって焼失してしまった。災いを転じて福となすとばかり、ユスティニアヌスは反乱が終結してわずか39日後に復旧に着手する。神の栄光を称え、自分の栄華を永久に伝えるために、もとの教会よりもはるかに壮麗なものをと、まずは周辺の土地の買収にとりかかった。

 用地買収は難航した。拡張予定地に家を持っていた未亡人は、85ノミマス(金貨85枚)という買収価格を提示され、金50ポンド(金貨3600枚)でも売らないと言い張った。彼女を説得したのは、「いずれあなたをこの教会に葬ってあげよう」というユスティニアスヌの言葉であった。

 宦官のアンティオコスという者も予定地に家屋を持っていた。彼も買収に非協力的であった。買収担当の財務官は、この男が競馬好きなのを知って、競馬の開催日直前に彼を勾留した。競馬の日になると、彼は「競馬を見たい、だから皇帝のいう通りにする」と折れて出た。彼は皇帝観覧席へ連れてゆかれ、競馬を見ながら売却契約書に署名したという。

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 資材と職人を世界中から集め、5年半の歳月をかけてハギア=ソフィア聖堂は完成した。その壮麗な姿は、旧約聖書「列王紀」のソロモン王の大神殿もかくやと思わせた。537年12月の竣工式、教会の祭壇に立ったユスティニアヌスは両手を差し伸べると、「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだ。

 ユスティニアヌス即位当時、北アフリカはヴァンダル王国、イタリアは東ゴート王国、そしてイベリア半島は西ゴート王国と、旧西ローマ帝国領はゲルマン人の支配下にあった。これらの地方を奪回し、ローマ帝国を再興することがユスティニアヌスの夢であった。

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ヴァンダル族のローマ略奪
 
 ヴァンダル王国は、建国者王ガイセリック王の時代、強勢を誇っていた。455年には海を越えてローマを略奪したこともあった。しかし523年、ガイセリックの孫ヒルデリックが王となった頃には昔日の面影はもはやなかった。ローマ遠征の際に捕虜とした西ローマ皇女を母にもつ彼は、王国のローマ化を進めたが、ヴァンダル貴族の反発に遭い、530年一族のゲリメルによって王位を追われた。

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ベリサリウス 

 これをみたユスティニアヌスは、533年、ベリサリウス将軍に1万6000の軍勢を与えて、海路ヴァンダル王国へ送り出した。ベリサリウスは都カルタゴの東南に上陸し、海岸沿いに進撃した。都を追われたゲリメルは翌年に降伏し、ヴァンダル王国は100年の歴史を閉じる。コンスタンティノープルに戻ったベリサリウスは競馬場で凱旋式を行った。破格の待遇であった。

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 自信を持ったユスティニアヌスは、535年こんどはイタリアへ遠征軍を送る。テオドリック大王のもとで繁栄した東ゴート王国も、その晩年には、国内のゲルマン人とローマ人の反目に悩まされていた。ベリサリウス将軍はシチリア島から南イタリアに上陸し、ナポリ、続いてローマを占領、このたびの戦争も短期間で終わるかと思われた。ところがヴァンダル人とは違って、東ゴート人はこのあと20年にわたって執拗に抵抗する。戦況は一進一退を繰り返し、都府ローマはそのたびに支配者を替えた。最終的にローマを占領したのは552年、イタリアを完全支配するのは555年のことである。この間にユスティニアヌスは、西ゴート王国の内紛に乗じて、イベリア半島の東南部を征服することに成功した。こうして地中海は再び「我らの海」となった。

 ユスティニアヌスは誇らしげに征服称号を帯びる。

 インペラトール、カエサル、フラヴィウス、ユスティニアヌス。アラマン人の、ゴート人の、フランク人の、ゲルマン人の、アント人の、アラン人の、ヴァンダル人の、アフリカ人の、敬虔な、幸いある、輝かしい、勝利者、凱旋者、永遠のアウグストゥス

 旧ローマ帝国領の奪回のためには莫大な戦費が必要であった。アナスタシウス帝の残した剰余金でも足りないと、即位直後からユスティニアヌスは、片腕の財務長官ヨハネスを使って軍資金を着々と貯える。ヨハネスは財政にかけては有能で、なにかと名目をつけては新規の財源をみつけてきた。特に有名なのは「空中税」である。プロコピオスによると、正規の税ではなく、勝手に「まるで空から降ってくる」ように課されたからこの名がついたという。実際には、首都の高層住宅に住む者を対象とした新税らしい。

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ニカの反乱

 増税への不満はついに爆発した。532年1月、競馬場に集まった市民たちは「ニカ(勝利せよ)!」と叫んで立ち上がる。暴動は瞬く間に全市に広がった。ユスティニアヌスは市民をなだめようとしてヨハネスの解任を発表したが、火に油を注いだだけであった。ハギア=ソフィア聖堂は焼け落ち、宮殿にも攻撃が及んできた。この頃には元老院議員の多くも反乱側に寝返っていた。彼らは、前の皇帝アナスタシウスの甥を引っ張り出し、競馬場の皇帝観覧席に立たせた。市民たちの「皇帝万歳!」の叫びは、隣り合っていた宮殿からもよく聞こえたであろう。

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テオドラ妃

 事態に絶望したユスティニアスヌは逃亡を決意する。港には船も用意された。男たちがうろたえる中、動物の調教師の娘で踊り子上がりの皇妃テオドラがみごとな演説をしたことはあまりにも有名である。

 たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者が死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。……生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるようなものでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。「帝衣は最高の死装束である」。

 天晴れな妃テオドラ。彼女がいなければ、ユスティニアヌスも即位数年にして帝位を追われた無能な皇帝としか歴史に名を残さなかったであろう。妃の言葉に勇気を取り戻した皇帝は、たまたま東方戦線から戻っていたベリサリウス将軍に最後の作戦を命じる。ベリサリウスは競馬場に向かうや、対立皇帝を捕らえるのは後回しにして、歓呼の声をあげていた市民にみさかいなく襲いかかった。3万人が虐殺され、さしもの大反乱も終わった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/08/04 05:23 】

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