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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー篤信の殺戮者たち・十字軍②

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 1096年秋、前年のクレルモン宗教会議でのウルバヌス2世の十字軍運動の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアのノルマンの諸侯たちが参加して、第1回十字軍が編制された。ロレーヌ地方のゴドフロワとボードワンの兄弟の率いる軍団はドイツから陸路ハンガリーを通り、フランドル地方を中心としたフランス軍団とノルマン騎士たちはイタリアから船でバルカン半島にわたり、ローマ教皇特使アデマールを戴く南フランスの騎士たちはアドリア海岸を南下して、同年12月にコンスタンティノープルに集結した。ここで東ローマ皇帝アレクシオス1世は必要な軍資、軍隊を与える約束をしていたのである。

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東ローマ皇帝アレクシオス1世

 もし、教皇ウルバヌスが十字軍遠征の主目的を東西両教会の合同においていたとすれば、彼はここで早くも幻滅を味わわなくてはいけなかった。というのは、皇帝は約束した軍資、軍隊を供給する前に、十字軍兵士が彼に対して臣従を誓うことを要求したのである。彼は十字軍を利用して、失地の回復を夢みていたのだ。この予期しない問題の発生で、東西間の協調の空気は著しく阻害された。しかし、ともかくも十字軍将兵は臣従礼をとり、東ローマ帝国軍と合同して、1097年にボスフォラス海峡を渡り、いよいよ異教徒の敵と相まみえることになった。

 アジアに渡った十字軍兵士の数は、中世風の誇張では数十万となっているが、実際は騎兵5000、歩兵1万5000、イェルサレム攻城の際にはその3分の2だったといわれる。

ドリュラエウムの戦い 
ドリュラエウムの戦い

 彼らは1097年6月にルーム=セルジューク軍の守るニケーアを落とし、7月にはドリュラエウムの戦いで敵の騎兵隊を撃破。1098年6月苦戦の末アンティオキアを占領し、シリア海岸を南下してイェルサレムの城壁に近づいた。3000キロ以上の道のりを 約3年かかって到達したことになる。

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 イェルサレムは、海抜800メートルほどのモリアー山とシナイ山の上にあり、深い谷と厚い城壁に囲まれていた。十字軍将兵は約1ヶ月の包囲のあと、7月13日夜半から総攻撃を開始した。この時イェルサレム城を守っていたのは、トルコ人ではなく、エジプトのアラブ人であったが、彼らは城壁から矢や岩塊を雨あられと降らせ、科学兵器の「ギリシア火」を吹きつけた。

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 「ギリシア火」は東ローマ帝国時代に用いられた火器で、7世紀にシリアの技師カリニコスが発明したとされる。自然硫黄、酒石、樹脂、松、精製岩塩、軽油および精製油を混ぜ合わせた半液体状のもので、これを麻くずで点火し、ポンプ状の筒から敵船などの攻撃物に向かって発射した。水で消火することができなかったので、海戦ではとくに効果をあげた。

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ロレーヌ公ゴドフロア

 7月15日朝、ロレーヌ公ゴドフロア軍が車輪付きの櫓を使って城壁にとりつき、昼頃、北門からイェルサレム城内に突入した。そのすぐあと、将兵による見さかいなしの虐殺が始まった。逃げまどう市民を片っ端から斬り殺した。かつてソロモン王が、ついでヘロデ王が建てたイェルサレムの神殿跡には、イスラーム寺院が建っていたが、そこへ逃れた市民7万人以上が殺され、境内は血の海となった。

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 殺されたのはイスラーム教徒ばかりではなかった。7月16日の朝、十字軍の将兵は、市内にいるユダヤ教徒を会堂(シナゴーグ)に集めたあと、外から密閉し、火をかけて全員焼き殺した。ヨーロッパをたつ時、景気づけにユダヤ人を襲ったやり方を、ここでも彼らは実行したに過ぎなかったのだろう。

 略奪もまた凄まじかった。神殿の金銀の燭台や灯明は勿論のこと、民家に押し入って家財を奪い、屍体からも金品をかき集めた。当時のあるキリスト教徒の記録は、さらにこうも伝えている。

 サラセン人(イスラーム教徒)が生きているあいだに、そのいやらしい喉の中に飲み込んだ金貨を、腸【はらわた】から取り出そうと、屍【しかばね】の腹を裂いては調べまわり、……同じ目的で屍を山と積み上げ、これに火をつけて灰になるまで焼き、もっと簡単に金貨を見つけようとした。
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  こうした蛮行の後、ロレーヌ公ゴドフロアを初代の統治者とするイェルサレム王国がつくられた。シリアには、北からブローニュ伯ボードワンがエデッサ伯領を、ボエモンがアンティオキア公国を、ツールーズ伯のレイモンがトリポリ伯領を治めることとなった。こうして第1回十字軍は成功裡に終わり、そのヨーロッパへの反響は大変なものだった。

 しかし、この大運動を起こし、その総指揮をとったウルバヌス2世は、虐殺された人々の無念の思いに呪われたのか、聖地奪回の報が届く直前、7月29日にローマで息を引き取っている。

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 イェルサレム陥落後に、住民の家に隠されていたという十字架が発見された。十字架ならばどれも「聖なる十字架」だが、これだけは格がちがう。イエス=キリストが磔になったという十字架なので、人々は迷わずに「真なる十字架」と名づけた。彼らにすれば、黄金や銀で作られた十字架よりも、断じて価値があったのだから。その人々の意を汲んで、1000年もの歳月放って置かれた木の十字架が原型を保っていられるのかなどという、ヤボは言わないことにしよう。

 しかし、感涙にむせんでいる戦士たちもこの直前までは、敗者となったイェルサレム在住のイスラーム教徒たちを目を背けたくなるほどの残酷さで殺しまくっていたのである。聖地解放とは、自らも血を流すが敵にも流させる中で進められていくことなのであった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/08/11 05:19 】

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